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連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着したのは昭和20年8月30日の午後2時過ぎでした。 C54型機から出てきたマッカーサー元帥は、コーンパイプを口にくわえ、タラップの途中で立ち止まり、平静を装って余裕を示すように左右を見渡したシーンは有名です。 その後厚木から車列を組んで横浜に移り、横浜のホテル・ニューグランドを宿舎兼執務室として使用しました。 最初の総司令部を横浜に置くことは、日本政府の提案でしたが、横浜は徹底的に破壊されていました。 昭和20年9月5日に撮影された横浜・山手の丘から眺めた街の写真がありました。河原匡喜『マッカーサーが来た日』には当時の様子が詳しく描写されています。 <終戦の日、港の見える山手の高台から眺める横濱は一面の焼土であった。遠く長者町方向も、手前の元町、山下町、関内一帯も焼け尽くしていた。錆びた鉄骨を残す建物、黒ずんだ小型の焼けビル、電線を失い焦げて立ち尽くす電柱、瓦礫の山、所々に壕舎とバラック小屋はあっても、木造の建物は一切残っていなかった。元町と山下町の間を流れる堀川にかかる谷戸橋、前田橋、西之橋を通る道路が遮るもののない関内に白茶けて伸びていた。> <この中で、不思議なように生き残っている地域があった。右手前方、横浜港の海と山下公園の樹木の濃緑を背景に白く見えるホテルニューグランド、左手方向は海岸通りに沿ってかなりの数のビルが変わらに姿を留めていた。この一角だけは周囲に取り巻くもののない廃墟に、放置されたような建物が建っていた。> 写真の赤矢印のところがホテルニューグランドです。 この有様でしたから、連合軍総司令部の横浜進駐が決まってから、市内の整備作業はにわかにあわただしくなり、提供する建物の選定から、電力、電話、ガス、水道の復旧に大わらわだったようです。 終戦の日のホテルの状況も『マッカーサーが来た日』に述べられていました。 <八月十五日、本牧元町にいた社長野村洋三は、きがかりになっているホテルに出向いて愕然とした。一階正面の階段は子供の遊び場となり、二階ロビーは鍋、寝具、家具を持ち込んだ中国人家族がそこかしこに座り込み、、喧噪を極めていた。日本人も大食堂の一角に入りこんでいた。> 今では想像もできない有様です。 その日のうちに野村は、県、市、警察に連絡をとって被災者の救護を要請しています。 <ホテルの大清掃を、野村は残っている従業員と各地から戻ってきた従業員とともに行った。八月二十仁日、日本政府からマッカーサー以下連合軍幹部宿舎の要請を受けた時、速やかに対応できたのは、建物整備に早い決断をしていたからであった。ホテルは奇しくも再び廃墟からの出発の拠点となったのである。> なんとか表向きはマッカーサーを受け入れる体制を整えることができたようです。
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by seitar0
| 2025-11-02 10:59
| 横浜
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ダン・ブラウン『天使と悪魔』はヴァチカンを舞台にした物語。スイス衛兵が重要な役割を果たしています。 小説ではラングドン教授は、上の写真の世界で最も強力な粒子加速器が設置されているスイスのジュネーヴ郊外の欧州原子核研究機構(CERN)から、X33 宇宙航空機(実在)でローマのレオナルド・ダ・ヴィンチ空港に向かいます。 その時のヴィットリアとの会話で「スイス衛兵隊。神に宣誓したヴァチカン市国の衛兵ですよ」とスイス衛兵が話題になります。 レオナルド・ダ・ヴィンチ空港で落ち合ったラングドンとヴィトリアはヴァチカン市国のヘリコプターでヴァチカンに向かうことになります。 上の地図の黄線で囲ったところがヴァチカン市国のヘリポートです。 小説ではこのヘリコプターのパイロットがスイス衛兵の服を着て登場します。 <パイロットは、シェイクスピアの芝居用に紛争したようないでたちだった。ふくらんだ上衣には輝く青と金の縦縞がはいっている。ズボンとスパッツも同じ模様で、足にはスリッパに似た黒く平らな靴を履いている。頭にかぶっているのは、黒いフェルトのベレー帽だ。> 写真はサンピエトロ大聖堂に立つスイス衛兵。 <「伝統的なスイス衛兵の制服だよ。ミケランジェロ本人がデザインした」パイロットが近づくにつれ、ラングドンはたじろいだ。「わかっている。ミケランジェロの傑作のひとつとは言えないさ」> 本当はミケランジェロのデザインではなく、1914年にスイス衛兵の士官ジュール・ルポン(Jules Repond)により、1500年代ルネッサンス期当時のスイス衛兵の装いを元にデザインされたそうです。 こちらはスイス衛兵隊警備本部サンタンナ門の警備班が着用している地味な青色の勤務服 です。 <エリート集団であるスイス衛兵隊の一員になるためのきびしい要件については、何度も読んだことがある。スイス国内の四つのカトリック州から集められる。十九歳から三十歳までのスイス人男子で、身長百七十四センチ以上、スイスで兵役を経験したことがあり、独身者でなければならない。。この教皇護衛隊は、地球上で最も忠実で優秀な警護隊として、世界じゅうの政府の羨望の的となっている。> 小説に書かれている通りで。スイス衛兵になるには、身長174センチ以上、カトリック信徒など、いろいろの条件があり、厳しい検査を通過した人だけが選ばれるそうです。 #
by seitar0
| 2025-10-31 21:47
| 海外
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久しぶりに宿泊したホテル・ニューグランド。大佛次郎、三島由紀夫、浅田次郎、渡辺淳一らの小説の舞台としても登場します。 山下公園を歩く俊と海です。 今回は本館には宿泊できませんでしたが、本館3階の318号室は大佛次郎ゆかりの部屋で、「天狗の間」と名付けられています。 大佛次郎は昭和6年から約10年間にわたり、ホテル・ニューグランドのこの部屋を創作活動の場とし、横浜を舞台にした『霧笛』をはじめ『鞍馬天狗』他、数々の名作を生み出しました。 大佛次郎のエッセイ集『横浜今昔』「"霧笛"を生んだ波止場情緒」では次のように述べています。 <仕事をするにもハマでないと気分がのらず、ホテル・ニューグランドの一室に閉じこもって大いに遊んだのもこのころだ。「三一八号室」——それがぼくの部屋だった。ホテルの三階にあってね。港が真正面に見えて展望はよくきくし、実に住み心地のよい場所だったよ。とくにボーイに気のきくのがいてね。仕事の時は参考の書籍をきちんとそろえて待っていてくれる。ノコノコ鎌倉の自宅からホテルに入るとすぐ筆がとれるといった具合でね。万事好都合さ。そこでこの部屋を仕事場と決めこんで、十年余り鎌倉とハマを行ったり来たりしていたもんですよ。> 3階の廊下左手にある318号室。 現在は「天狗の間」というプレートが付けられています。 <「霧笛」を書いたのもこの当時でね。波止場近くの山下公園には夕方いつも散歩がてら出たものだ。ハマ独得の潮風の香をかぎながら"ボーッ"と低く、重く流れる汽笛を聞いているとなんともいえないね。とくに夏の夕方などは素敵に感じて、じーっと船を見ていたときもありましたよ。海に臨んだ美しい緑の公園、それがあんなに家(米軍将校ハウス)が立っちまって、昔の面影がみじんも見当らなくなってまったくイヤだね。> 終戦後の昭和20年9月、山下公園は米軍によって接収され、園内全域に将校クラスの家族住宅が建設され、公園はフェンスで囲まれ、立ち入り禁止区域となっていました。 大佛次郎がこのエッセイを書いたのは昭和32年で、全面的な接収解除は昭和34年まで待たねばなりませんでした。 #
by seitar0
| 2025-10-27 20:21
| 横浜
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ドイツを代表する文豪ゲーテにとって、古代ローマやルネサンスの芸術・文化が息づいたイタリアはかねてからの憧れの地であり、また公務や人間関係の鬱屈から逃れ、精神的な再生を求め、1786年イタリアへ旅立ちました。1816年には滞在中の書簡や日記などをもとにまとめた自伝的作品『イタリア紀行』を発刊しています。 ゲーテが憧れのローマに到着したのは1786年11月1日でした。その感動を次のように述べています。 <どこへ行くのか自分自身にも敢えて明言せず、旅の途中でも案じていたくらいなのだから。ポルタ・デル・ポポロの下を通ったとき、はじめてローマに着いたと実感した。> 黄線で囲ったところ。 <チロルの山々は、いわば飛び越してきた。ヴェローナ、ヴィチェンツァ、パードヴァ、ヴェネツィアなどはよく見て、フェラーラ、チェント、ボローニャはざっと見て、フィレンツエはほとんど見ていない。ローマへ行きたく矢も楯もたまらず、その欲望は一瞬ごとにつのり、もはや足を留めるわけにもいかず、フィレンツェには三時間しか滞在しなかった。いまここに到着して穏やかな気持ちになり、生涯にわたる落ち着きを得たような気がする。> 当時はヨーロッパ中に整備されていた公共の交通手段であった郵便馬車を主に利用して移動したようで、ゲーテは赤矢印の経路で移動し、ドイツを出発してから約2か月でローマのポポロ門に到着しています。フラミニア街道を馬車でやって来る多くの旅人たちで賑わった、ローマの北の玄関口です。 古代ローマ時代のこの場所にはフラミニア門が建てられていました。現在見られるポポロ門は16世紀に建て替えられたものです。 上の写真の市外側にあるファサードはミケランジェロが手掛けたもので、1562年から1565年に掛けて製作されました。正面の4組の円柱は旧サン・ピエトロ大聖堂から移設されたもので、大きなアーチ型通路が中央に1つと、その両脇に2つのアーチ型通路があります。1638年、中央アーチの両側にフランチェスコ・モーキ作の聖ペテロと聖パウロ像が設置されました。 市内側(ポポロ広場側)のファサードはベルニーニが手掛けたもので、1655年12月23日のスウェーデン女王クリスティーナのローマ訪問に合わせて落成されました。 写真の右側にあるのがサンタ・マリア・デル・ポポロ教会。ダン・ブラウン『天使と悪魔』にも登場します。 ポポロ門をくぐると、目の前にポポロ広場が広がります。 中央のオベリスクは古代ローマ時代の紀元前10年に、アウグストゥス帝によりエジプトのヘリオポリスから運ばれてきたラムセス2世のオベリスク。 南に向かって3本の道路が放射状に伸びています。バロック期には広場に面してドームを載せた2つの教会堂(双子教会)が建設されました。右が「サンタ・マリア・ディ・ミラコリ教会」、左が「サンタ・マリア・ディ・モンテサント教会」です。 子供のころからローマに憧れていたゲーテは「わが青春の夢という夢がいま生き生きと眼の前に見えるのだ。」とその感激を述べていました。
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by seitar0
| 2025-10-26 10:54
| 海外
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白いるかを見に、久しぶりに横浜に行きました。 前日の夕方に湊の見える丘公園に行くと、国際信号旗のUW旗(航海の安全を祈る)が風にたなびいていました。 『コクリコ坂から』の舞台は、1963年の港町・横浜。映画の中には、当時の山下公園や桜木町駅などロケ地となった場所が登場し、ノスタルジックな横浜が魅力的に描かれています。 調べると『コクリコ坂からビジュアルガイド~横浜恋物語~』という本まで発刊されており、横浜の観光地巡りができます。 港の見える丘にある「コクリコ荘」に暮らす16歳の主人公・松崎海は、亡き父を思い、毎朝海に向かって「安全な航行を祈る」信号旗を揚げています。 脚本では次のように書かれている場面です。 <庭先へ出た海、旗竿に歩み寄り、素早く信号旗をくくりつけ揚げる。庭の向こうの木立の先には朝陽が届いている。さわやかな空に「航海の安全を祈る」UとWの旗が翻る。横から朝陽に輝き始めた海を眺める海。海からは木立と屋根でタグボートは見えない。> <光の中を走る小型のタグボート。学生帽姿の俊がブリッジに立ち、信号旗を揚げる。答礼旗とUW(ありがとう)が翻る。汽笛一声。俊、索をくくり終えて丘を見る。> さて、海が暮らす港が見える丘の上の下宿屋・コクリコ荘は山手に残っている西洋館の山手資料館や山手111番館などをイメージして描かれたものらしく、コクリコ坂も谷戸坂がモデルとも言われています。 しかし、コクリコ荘の場所として私の個人的なイメージは港の見える丘公園の登り口にあるフランス山の領事館のあったあたり。 今も旗竿のかわりに復元された風車がまわっています。 #
by seitar0
| 2025-10-21 10:46
| 横浜
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