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森まゆみ『即興詩人のイタリア』からです。 (上の絵は安野光雅 繪本「即興詩人」より) <スペイン階段の下は石畳のスペイン広場、ピエストロ・ベルニーニ制作の舟(バルカッチャ 酒樽を積んだ破船とも)の噴水がある。> この噴水は1629年に造られたもので、ローマ市内を流れているテヴェレ川が氾濫したときに、一艘の船がこの場所に流れ着いたという逸話から、この形状になったともいわれています。水底は明るい青で、広場を訪れた旅行者たちが投げた硬貨が沈んでいました。 <劇場の舞台わきのボックス席もバルカッチャというそうだ。花の屋台が並び、観光馬車が何台も停まっている。> 私が訪ねた時は、花の屋台や観光馬車は見られませんでした。 <そして広場を横切ってまっすぐ行くと、ヴァレンチノ、フェンディ、アルマーニから最近人気のプラダまで、ブランドのブティックの続くコンドッティ通り。> 広場の正面がコンドッティ通りです。 <ローマ最古のカフェ、ゲーテやワーグナー、カサノヴァ、キーツ、シェリーも通ったカフェ・グレコがある。> 写真の左手にあるのがアンティーコ・カフェ・グレコ。 1760年にオープンしたローマで最も古いコーヒーハウスで、イタリアではヴェネツィアのカフェ・フローリアンに次いで古いカフェです。 上の絵はルートヴィヒ・パッシーニによる「ローマのカフェ・グレコ」。 文豪や多くの著名人が通ったカフェ・グレコ。コンドッティ通りを歩いた時には、知らずに店の前を通り過ぎてしまいました。 残念。 #
by seitar0
| 2025-09-10 21:48
| 海外
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森まゆみ『即興詩人のイタリア』からです。 (上の絵は安野光雅 繪本「即興詩人」より) <スペイン階段の下は石畳のスペイン広場、ピエストロ・ベルニーニ制作の舟(バルカッチャ 酒樽を積んだ破船とも)の噴水がある。> この噴水は1629年に造られたもので、ローマ市内を流れているテヴェレ川が氾濫したときに、一艘の船がこの場所に流れ着いたという逸話から、この形状になったともいわれています。水底は明るい青で、広場を訪れた旅行者たちが投げた硬貨が沈んでいました。 <劇場の舞台わきのボックス席もバルカッチャというそうだ。花の屋台が並び、観光馬車が何台も停まっている。> 私が訪ねた時は、花の屋台や観光馬車は見られませんでした。 <そして広場を横切ってまっすぐ行くと、ヴァレンチノ、フェンディ、アルマーニから最近人気のプラダまで、ブランドのブティックの続くコンドッティ通り。> 広場の正面がコンドッティ通りです。 <ローマ最古のカフェ、ゲーテやワーグナー、カサノヴァ、キーツ、シェリーも通ったカフェ・グレコがある。> 写真の左手にあるのがアンティーコ・カフェ・グレコ。 1760年にオープンしたローマで最も古いコーヒーハウスで、イタリアではヴェネツィアのカフェ・フローリアンに次いで古いカフェです。 上の絵はルートヴィヒ・パッシーニによる「ローマのカフェ・グレコ」。 文豪や多くの著名人が通ったカフェ・グレコ。コンドッティ通りを歩いた時には、知らずに店の前を通り過ぎてしまいました。 残念。 #
by seitar0
| 2025-09-10 21:48
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須賀敦子さんは『時のかけらたち』で、イタリア語の「スカリナータ」の解釈について述べていますが、その中で、スペイン階段の歴史についても触れています。 スペイン階段、1740年頃 <ローマにしてはの話だが、建築の年代からいって、スペイン広場のスカリナータはさして古いものではない。最初この傾斜地の上下を階段でつなげようと考えたのは、フランス王、あのルイ十四世だったという(ちなみに、ヴェルサイユ宮殿の建設を思いついたのも彼だった)。ローマのまんなかに、フランスの王が石段を造らせる、あるいはローマの都市計画にフランス王が口をはさむ、というのはいかにも突飛にきこえるかもしれないが、当時ローマは教皇領だったから、そういうこともあり得たのだろう。> 最終的にこれを造らせたのはルイ十四世の曾孫にあたる、ルイ十五世で、設計者は、イタリア人の建築家フランチェスコ・デ・サンクティス。1725年に完成しました。 現在ののスペイン階段。 蛇足ですが、階段の右側に写っている建物で、ロマン主義詩人のジョン・キーツは、療養のため最後の数年間を送り、死去しました。その家はその後、詩人のシェリーも住んだため、この2人のロマン派詩人を記念してキーツ・シェリー記念館として公開されています。 森まゆみさんも『即興詩人のイタリア』でスペイン階段について触れ、私の疑問に答えてくれていました。 <なぜスペイン階段というか。それは十七世紀にヴァティカン駐在スペイン大使館があったかららしい。しかしこの段で一番目立つのは段上の、二つの鐘楼をもつトリニタ・ディ・モンティ(山の三位一体)教会。1502年、ルイ十二世の意向で着工されたフランス国有の教会で、この大理石の階段も1725年、フランスが金を出して造ったというのにスペイン階段とは、こはいかに。> トリニタ・ディ・モンティ教会は須賀敦子さんご出身の小林聖心女子学院と深いつながりがありました。 聖心会(聖心女子学院を運営する修道会、Society of the Sacred Heart) は、1800年にフランスで創立され、1820年代、ローマにも進出し、フランスからの要請で トリニタ・ディ・モンティ修道院を拠点とすることになり、ここに学校を開設しました。 現在のセイクリッド・ハート・ネットワークは北米25校、 世界200校以上に及びます。 トリニタ・デイ・モンティの修道院には壁画「マーテル・アドミラビリス」と名づけられた聖母マリアの原画があります。この聖母像は、学院の創立者、聖マグダレナ・ソフィア・バラがめざした女性の理想像を表すものとして親しまれ、世界中の聖心女子学院で、学校のどこかに必ず飾られているそうです。 この修道院は2006年まで聖心女子学院でしたので、その壁画は今もそのまま大切に保存されています。教会の脇にある扉から呼び鈴を押し、受付職員に「マーテル・アドミラビリス」の絵を拝見したい旨を伝えれば厚意で入れてもらえるそうです。 上の写真はトリニタ・ディ・モンティ教会の中で、入ることができました。 #
by seitar0
| 2025-09-07 12:22
| 須賀敦子
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須賀敦子のエッセイ集『時のかけらたち』「アラチェリの大階段」の冒頭では、スカリナータ(Scalinata)というイタリア語の説明から始まります。須賀さんはふつうより大きくてモニュメンタルな階段のことと解釈され、スカリナータという言葉にこだわる理由について、 <このことばが、まっすぐに私をローマのスペイン広場から見上げたところにある、あの、どこかほんのりとあたたかい色調を帯びた、トラヴェルティーノ石の大階段に連れ戻してくれるからだ。>と留学時代の懐かしい記憶をからめ、スペイン階段について語っています。 スペイン階段と言えば、私など1953年に公開された映画「ローマの休日」で、アン王女役のオードリー・ヘプバーンが、短く髪を切り、ジェラートを食べているところに、アメリカ人新聞記者役のグレゴリー・ペックが下りてきて、偶然に出会ったふりをする場面です。 須賀さんは続いて、 <スペイン広場からスカリターナの頂上にそそりたつトリニタ・デイ・モンティ教会をながめると、様式の不揃いな二本の塔が、暗いほど青いあのローマの空を背にきらめいている。>とその情景を描き、1954年の春、はじめてスペイン広場から白い階段を見上げたときの記憶と重ねます。 更にアンデルセンの『即興詩人』にまで話は及びます。 上の絵は安野光雅の繪本「即興詩人」より <スペイン広場の大階段は、そのころ、勉強のあいまに読み返していた『即興詩人』の恐ろしげな乞食の群れの話にもつながっていた。私があの街で暮らしはじめた50年代の終わりごろには、まだ、群れとまではいかなくても、物乞いの人たちが、都心の路傍でからだの障害をみせびらかすかのよにして、通行人の施しを乞うているのに出会った。> そしてイタリアを実際に訪れたことがなかった森鴎外が『即興詩人』をどう考えていたのだろうと、スペイン階段の翻訳に触れています。 <わが穉(おさな)きころ、わがためにおほいなる意味ありと覺えし第三の人はペツポのをぢなりき。惡人ペツポといふも西班牙磴(スパニアいしだん)の王といふも皆その人の綽號(あだな)なりき。此王は日ごとに西班牙磴の上に出御(しゆつぎよ)ましましき。(西班牙廣こうぢよりモンテ、ピンチヨオの上なる街に登るには高く廣き石級あり。この石級は羅馬(ロオマ)の乞兒(かたい)の集まるところなり。西班牙廣こうぢより登るところなればかく名づけられしなり。)> 須賀さんは、鴎外がスカリナータの翻訳に込めた思いを次のように解釈されています。 <スカリナータを磴という漢字に「いしだん」と仮名を振り、あるいは「高く廣き石級(せっきゅう)あり」とするなど、鴎外には、原書としたドイツ語訳の「格調」を日本語に移し変えようと、けんめいになっている。だが、それだけだろうか。私には、若い彼が取り組まねばならなかった欧米の言語の複雑なシンタックスの重層性を、そしてまた、彼がかつてヨーロッパで目にし、見上げた、かずかずの建築物の、石の量感、構造の重層性を、そのまま文体にあらわそうともがいているよおうに思えるのだ。> イタリア文学の翻訳者としても注目されていた須賀さんの翻訳へのこだわりが伝わってきました。 須賀さんと『即興詩人』の出会いは、エッセイ集『遠い朝の本たち』「父ゆずり」の中で述べられており、ここに引用しておきます。 <父は、外国文学を勉強していた私のことを、日本語がだめになるといって、たえず不安がった。『即興詩人』を読め、と何度いわれたことだろう。あまりたびたびいうので、そのときによって、ちゃんと読んだこともあるし、読みましたとか、読んでます、とかいってごまかしたこともあった。『即興詩人』は意訳・誤訳が多くて、原文には忠実でないそうです、などとどこかで読んだことを受け売りして、ばか、とたしなめられたこともあった。ローマに留学したとき、最初に父から届いた小包は、岩波文庫の『即興詩人』だった。「この中に出ている場所にはみんあいってください」という、ほとんど電報のような命令がページにはさんであった。> 何とほのぼのとした父娘の関係でしょう。父の娘を思いやる気持ちが伝わってきます。 #
by seitar0
| 2025-09-03 21:25
| 須賀敦子
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須賀敦子さんが1991年の春、10日間の予定でローマに滞在されたときのエッセイ、『トリエステの坂道』「ふるえる手」からです。 <どの道を通っても思わず立ち止まって眺めてしまうような建物や人間に会うことのすくない東京とは違って、ローマの街には(そしてたぶんヨーロッパのどこの街にも)、歩くだけで映画を見るように愉しかったり、感心したりする道が数えきれないほどある。たとえばテヴェレ河に平行したヴィア・ジュリア。> 上の航空写真の橙色の線で囲んだ直線道路です。 須賀さんは数年間にローマに滞在したときに、この道を発見したそうです。 <道の一角に立っただけで、なにかあたりを払う品格のようなものが漂っていて、おもわず足を停めた。テヴェレ河畔からの道からは一段低い側道になっているために、車の往来がすくないということのほかは、平坦でひたすらまっすぐな道路にすぎない。それでいて、どこまでも歩いていきたくなるような、怪しい魅力がある。> 通りの入口の建物の壁にVIA GIULIA(ジュリア通り)と書かれた大理石の板がはめ込まれていました。 VIA GIULIAはこの先から始まります。 <家に戻ってその道の来歴を旅行案内書で調べると、やはり由緒ある道だった。十六世紀のはじめに建設されたローマ最初の直線道路で、建築家のブラマンテにときの教皇ジュリオ二世が命じて設計させたものだという。> <この道路の美しさは、道路そのものというより、両側にならんだ後期ルネッサンス建築の特質性と」、四、五階建てだろうか、建物の屋根の線がえがく遠近法か。> 通りの途中に、このように工事中の建物がありました。 おそらく老朽化に対応した工事だと思いますが、このようにオリジナルな姿を保存しているのです。 <もうひとつ、この道が私の興味をそそったのは、それが「ローマ最初の」直線道路だという説明だった。まっすぐな街路、というのを、私はずっと西欧のいわゆる論理的思考の産物と考えていたから、古代はいざしらず、中世には、この都市にも直線道路の思考が欠落していたという発見は衝撃的だった。> ルネッサンスの時代に、ようやく直線道路が誕生したようなのです。石畳も印象的です。 須賀さんは、中世の勝手気ままな曲線に対する、ルネッサンスの整理された直線と解釈し、貧しい中世の気ままさも捨てがたく、どちらも捨てがたい道路だと述べています。 これは物事の考え方について、象徴的に述べられているようにも思われます。 #
by seitar0
| 2025-08-29 21:22
| 須賀敦子
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