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西宮流コミュニティでブログを書いていたとき、甲南女子出身の栗田明子さんの「ゆめの宝石箱」を一度読むようにとコメントをいただきました。
![]() 栗田さんは昭和9年のお生まれで、甲南女子高校 を卒業後、「女が大学に行ったらお嫁のもらい手がなくなる。」と古風な父親から言われ素直に伊藤忠商事に就職。その後、著作権代理店(株)ユニ・エージェンシーに勤務。そして1981年には日本の出版物を海外に広めるべく自ら著作権代理店栗田板東事務所を設立。ドイツ・ケルンを本拠に欧米出版社に日本の図書を紹介。その事務所は日本著作権輸出センターへと発展し、現在は同社相談役をされているとのことです。 その彼女の姿こそ、ミーナが大きくなった時のモデルだったのです。栗田明子さんの本を紹介頂いてなければ、私はこの事実に気づくことなどなかったでしょう。ミーナの行進を再読して初めてこの事実を知った時は、本当に驚いてしまいました。 「ミーナの行進」からです。 <ミーナは中学の卒業式を待たずにヨーロッパへ渡り、スイスの寄宿学校へ進学した。その後、フランクフルト大学で文学を学び、貿易会社で大使館に勤務したあと、三十五歳でケルンに出版エージェンシー会社を設立した。ヨーロッパと日本の文学作品の翻訳出版を、仲立ちする会社だった。> まさに栗田さんのお仕事です。 そしてケルンのミーナから朋子への手紙です。 <おかげさまで私は、なかなか儲かれへんわ、と愚痴をこぼしながら楽しく仕事に励んでおります。翻訳出版のエージェントなんて、誰が褒めてくれるわけでもない地味な仕事ですが、それでもたまには、ささやかな、かけがえのない喜びをもたらしてくれます。今日、町の本屋さんで、私の手がけた絵本を買っている女の子に出会いました。大事そうに本を抱え、お母さんと手をつないで家へ帰っていくその子の後姿をずっと見えなくなるまで見送りました。> このお話、失礼ですが小川洋子さんが本当に栗田明子さんからお聞きした話ではないでしょうか。「なかなか儲かれへんわ」と関西弁で話されるのも、関西で育ち伊藤忠商事大阪本社で鍛えられた栗田さんですから、現実のような気がしてきます。 ゆめの宝石箱を読むと、確かに栗田明子さんは10歳まで西宮におられたようです。またいただいたコメントでは栗田さんは建石小学校出身とのことですが、建石小学校とは昔の市西の前身の西宮高等女学校ができる前にあった国民小学校でしょうか。 「ゆめの宝石箱」からです。 <翌年の晩秋に、私たち一家は西宮から芦屋に引っ越すことになりました。芦屋の家は、サマー・ハウスとしてつかわれていた海に近い一軒家で、海岸の間に松林の丘が二うねあり、風の強い日は波の音と松風の音がひどく寂しく感じられました。>翌年栗田さんのご家族はばらばらに疎開します。 <春の苦楽園でのつくし採りにはじまって、夙川のお花見、鳴尾のいちごつみ、六甲、麻耶の山歩き、香枦園の海水浴、明石の魚釣り………と一年前まで続いていた、一家での季節毎の行事などはまるで夢のようでした。> 昭和19年の頃に西宮の建石町の近くに住まわれていたご家族のレクレーションの思い出です。今も残っているのは夙川のお花見と山歩きくらいでしょうか。 最後にカバーの裏に紹介された文章からです。 <「ほんとうに行きたいと願うなら、思い続けて努力をしてごらんなさい。いつかは現実になるものですよ。」ほんとにそのとおりになりました!東西文化のかけはしになろう、日本の文化を、絵本や文学をとおして、世界の人たちにもっと知ってもらいたい!こんな夢を今も追っています。> #
by seitar0
| 2012-10-04 21:52
| 小川洋子
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「ミーナの行進」は山陽新幹線新大阪―岡山間が開通した昭和47年のお話でした。もう既にこの頃は西宮の香枦園浜で泳ぐことなどできず、当然芦屋浜海水浴場も閉鎖され既に埋立ても始まっていたのではないでしょうか。その頃、阪神間の近くの海で泳ぐとなると、須磨海岸だけだったのでしょう。その2年後の昭和49年の芦屋浜の風景は遠藤周作の「口笛を吹く時」に描かれていました。
<「ここでんねん」運転手はブレーキをかけて醜いコンクリートの堤防の前で車を停めた。「ここ。海が無いじゃないか」「そやさかい、埋立てましてんと言いましたやろ」海の風は何処からも吹いてこなかった。海の匂いもどこからもしなかった。小津はコンクリートの堤防の上に登り、あっと声を出した。ずっと遠くまで砂漠のように埋立てられているのだ。その砂漠のような埋立地にミキサー車が二台、地面を走っているだけであとは何もない。> ![]() その後の芦屋浜の様子は村上春樹の「50メートルの海岸線」などに述べられています。 さてミーナの行進に戻りましょう。 その年の夏の日曜日、伯父さんが「今日は皆で須磨海岸へ泳ぎに行こう」と宣言します。 ポチ子はお留守番ですが、一家はベンツとジャガーに分乗し芦屋川を下り、国道を通って須磨に向かいます。 <海水浴にこれ以上ふさわしい天気はないというくらい、気持ちよく晴れ渡っていた。蘆の茂みの間から、芦屋川のきらめきが見え隠れし、六甲山はくっきりとした稜線を空に描いていた。須磨の海岸までは、ただひたすら国道を西へ向かって走ればよかった。> ![]() どうも芦屋川の水は少なくて、きらめきが見え隠れとはなかなかいきません。 <元町を過ぎ、しばらくして、開け放した窓から潮の香が吹き込んできたと思った次の瞬間、松林の向うに海が姿を現した。「ねえ見てミーナ。海よ、海」> ![]() 確かに2号線やJRで行きますと、長田区を超え須磨海浜公園のあたりで急に海の景色が広がります。須磨の海岸に到着すると、一家は砂浜に二本、ビーチパラソルを突き刺し、折り畳み式のデッキチェアを組み立て海水浴を楽しむのでした。 須磨海岸は現在でも 大阪湾で唯一海水浴を楽しめる自然の砂浜として保全されており、夏には100万人を超える海水浴客で賑わっています。 ![]() 西を見ると一の谷の戦いの古戦場やその向うには明石大橋と海釣り公園が見えています。 ![]() JR須磨駅の東の海岸沿いは須磨海浜公園として整備されていますが、ここは元々住友家別邸の土地でした。当時コロニアル様式を取り入れた洋館では、国内外の紳士淑女を招いたパーティーも開かれたそうです。なかなか気づきませんが、写真の右下の石塀はその名残のようです。 ![]() 海浜公園の入り口で最も目立つ赤灯台は、国登録有形文化財となっている旧和田岬灯台です。 ![]() 明治4年あの西宮砲台と同じ造りの和田岬砲台の横に作られたもので当初は木製8角形の灯台でしたが明治17年鉄骨造の灯台に建替えられ、現在の須磨海岸には昭和38年(1963)に移築・保存されたそうです。 ![]() (灯台脇に設置された神戸市の説明図による) #
by seitar0
| 2012-10-03 19:46
| 小川洋子
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小学生のミーナはかなりの読書家で、朋子は芦屋市立図書館へ行って川端康成の本を借りてくるよう頼まれます。朋子は開森橋からバスに乗って図書館に向かいますが、この図書館とは村上春樹が通ったことでも有名な現在の芦屋市立図書館打出分室のことでした。
![]() <打出天神社向かいにある図書館は、石造りの重厚な建物だった。立派な樹木に囲まれ、蔓草が壁面を這い、古めかしい両開きの扉には中国風の飾りがはめ込まれていた。中は石の冷たさがこもったようにひんやりとし、規則正しく並ぶ背の高い本棚が、通路の隅に薄ぼんやりとした影を作っていた。>(「ミーナの行進」より) 打出小槌町にあるこの建物は国の有形登録文化財となっており、もとは大阪の逸身銀行の所有でしたが、昭和5年に松山與兵衛氏が購入し現在の場所に移設、美術品等の保管に使われていたそうです。 ![]() その後芦屋市が買収し、昭和29年から昭和62年まで図書館本館として使われてきたそうで、ミーナの行進の時代の昭和47年には芦屋市立図書館といえば、打出分室のことを意味していました。 ![]() 小説に描かれたように、外観はイタリアルネサンスのパラッツオ風で、重厚な仕上げの花崗岩を積んでいます。縦長のアーチ窓があり、扉は中国風の飾りと表現された「松濤」の文字をデザインした扉があります。 ![]() その内側はロマネスク調の木製飾り柱がありました。 ![]() 日本庭園もあり見学できます。 小説ではカウンターに白いとっくりのセーターを着た、カジュアルな装いの司書が「とっくりさん」として登場しますが、私が訪れた時はカウンターには女性二人でした。 ![]() ミーナの行進ではこの書架と朋子ととっくりさんの寺田順三氏による挿絵が描かれています。 #
by seitar0
| 2012-10-02 20:09
| 芦屋
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久しぶりに堂島のパボーニを訪ねると来年のカレンダーの編集を終えて、印刷の準備をされているとのこと、涼しくなったばかりですが、もうそんな時期なのかと思ってしまいました。
パボーニのカレンダーについては西宮流でモカの父さんが2010年11月21日に「パボーニの15周年カレンダー」として記事にされていました。 ![]() 写真はその2011年1月のカレンダーで絵は大森重志氏による堂島パボーニです。話を更に伺っていると、最近グーグルマップで店内が散策できるようになっているとのこと。 まず①検索蘭にグーグルマップと入力し検索 ②「グーグルマップー地図検索」をクリックし表示 ③検索蘭に「カーサラパボーニ」と入力し検索 ④日本地図の左に店内の写真が表示されるので、写真の右下の人マークをクリック 以上でパボーニの店内を隈なく、一階から地階まで見て廻れます。カレンダーの絵の青い扉から自分で歩いているように中に入れるので、是非一度お試しください。 経緯を聞くと、約1年半前に突然グーグルから店内を撮影したいと連絡があり、女性が一人で来て一時間程度撮影して帰ったそうでうす。結果はアメリカの本部で判定するので、わからないと言われ、その後なしのつぶてだったそうですが、最近突然お客さんから教えられて、グーグルマップで見れるようになったことを知ったとのこと。 知らないうちに、ストリートビューもお店の中に入り込むまで進化していました。 #
by seitar0
| 2012-10-01 21:56
| パボーニ
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小川洋子著「ミーナの行進」で、ドイツからお嫁にきたローザおばあさんの化粧品のお話がでてきます。ミーナが本ばかり読んで相手にしてくれないとき、朋子はとりわけ興味をもっていたローザおばあさんの部屋をノックして、迎え入れてもらいます。
<特に開けてみないではいられない引き出しをたくさん持っていたのは、鏡台だった。そこにはありとあらゆる種類の化粧品が揃っていた。そのすべてが、化粧水から白粉にいたるまで、女の人二人が並んでいる図柄をシンボルマークとした[双美人シリーズ]で統一されていた。女の人は二人ともうりざね顔で、巨大な薄桃色の花を頭に飾り、澄ましてどこかを見つめている。「ああ、それとってもよく効くよ。美肌クリームね。塗れば塗るほど、お肌すべすべしてくる。」ローザおばあさんは私を鏡台の前に坐らせ、シルクの化粧ケープを肩に広げ、どんなに高価な化粧品でも、惜しげなく使わせてくれた。それは茶色い蓋で乳白色の丸い瓶に入った、いかにも効き目がありそうなねっとりしたクリームだった。実際ラベルには{濃厚皮膚滋養クリーム}と書いてあった。> ここまで書いていただくと、ローザおばあさん愛用の化粧品はクラブ化粧品に間違いありません。 ![]() クラブ化粧品は中山太一が明治36年に神戸花隈で化粧雑貨業「中山太陽堂」を開店したのがはじまりで、双美人のシンボルマークで広く親しまれました。 ![]() 中山太陽堂は現在も株式会社クラブコスメティックスとして存続しており、現社長は孫の中山ユカリ氏、本社は地下鉄阿波座駅1番出口からすぐです。社屋には小説に書かれている巨大な薄桃色の花を頭に飾った双美人の看板があり、すぐにわかります。 ![]() 今年もクラブコスメティックの文化資料室では第8回企画展「中山太陽堂の大正時代」が開催され、大正100年にちなんだ大正モダニズムの世界を紹介されたそうです。美人画の絵葉書でご案内をいただいたのですが、残念ながら平日のみでしたので、見にいけませんでした。 この資料室の方には以前メールで「ミーナの行進」にクラブ化粧品のお話が掲載されていることを連絡いたしましたところ、当然良くご存知で、小川洋子さんにもお礼申し上げているとのことでした。 ![]() 創業者中山太一が大正11年苦楽園四番町に建てた6000坪の「太陽閣」の一部が現在の堀江オルゴール館になっています。紅葉の時期には美しい庭園を見学できます。 #
by seitar0
| 2012-10-01 20:20
| 小川洋子
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