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「ミーナの行進」の最後で、ポチ子は亡くなります。
<「寿命やったんです。一歳の赤ん坊でリベリアからやって来て、今年でもう三十五歳。人間で言えば立派なおばあちゃんですがな。大往生やな。」天王寺動物園の獣医さんは、ミーナと私を順番に見やりながら言った。> <ポチ子は天王子動物園で火葬にされ、骨になって私たち元に戻ってきた。ミーナを背中に乗せ、堂々と行進していたポチ子が、今ではミーナの両手に収まるほど小さくなっていた。>そして台湾ザルのサブローが車掌の本分を果たして第一号として埋葬されたフレッシー動物園のお墓にポチ子も埋葬されます。 ![]() <「さよならポチ子」ミーナが発したのは、その一言だけだった。小林さんのスコップで穴が埋められ、墓標が元通りに戻された。[フレッシー動物園の仲間たちここに眠る]> 七ふく製薬二代目社長伊藤長兵衛氏が昭和の初めに西芦屋町に開園し、フレッシー動物園のモデルとなった「伊藤動物園」にも動物のお墓がありました。 ![]() 海外の動物園では見られない慣習のようですが、日本のほとんどの動物園では慰霊碑が建立され9月20日(水)から26日(火)の動物愛護週間に、各地の動物園で「動物慰霊祭」などが行われているそうです。 私も10月6日に思い立って、王子動物園を訪れたのですが、確かに正面入り口を入って左手に行くと「動物の慰霊碑」があり、慰霊祭の名残でしょうか、菊の花が手向けられていました。 ![]() 動物園を訪れる子供たちを悲しませないためでしょうか、ひっそりとした場所にあり、説明の文字もなく、動物の姿が焼かれた陶板があるだけでした。 ![]() カバの写真が取れると期待したのですが、ちょうど出産した後で、産休のためカバ舎は閉じられており、残念ながら今回は姿を見ることはできませんでした。 さて今回で「ミーナの行進」の散策はおしまいなのですが、西宮が出てこないのは皆様ご不満かもしれません。小川洋子さんは最後に少しだけ西宮市を登場させてくれていました。 その後伯父さんの会社は大手の飲料メーカーに買収され、芦屋の屋敷も人手に渡り、 夫妻は苦楽園のマンションに住んでいました。(ミーナは既にケルンです) 朋子は伯父さんの喜寿のお祝いに苦楽園のマンションを訪れ、その帰り道芦屋に立ち寄るのでした。 <苦楽園からの帰り道、ふと思い立って、芦屋で途中下車し、昔の屋敷の跡を見てきました。大好きだったあの洋館が、もうどこにも存在しないことを認めたくなくて、ずっと近寄らないようにしてきましたが、その日阪急電車の窓に芦屋の町並みが見えてきた時、なぜか心が動いたのです。> 最後に苦楽園が登場したものの、「ミーナの行進」は、いわば芦屋案内のような作品でした。次は小川洋子さんには是非とも西宮を舞台とした小説を書いていただくことを期待しています。 #
by seitar0
| 2012-10-14 20:21
| 小川洋子
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昭和47年の忘れられない出来事の一つは、ミュンヘンオリンピック全日本男子バレーの優勝シーンです。
![]() 当然ミーナの行進でも取り上げられ、「ミュンヘンへの道」から、オリンピック開会式、バレーボール決勝リーグ準決勝、決勝へと話は盛り上がります。 手に汗握る戦いで、特に準決勝ブルガリア戦はスコア、13-15,9-15,15-9,15-9,15-12試合時間3時間15分という大接戦でした。 小川洋子さんがそうだったのかしれませんが、ミーナは猫田選手の大ファンでオリンピックが終ってすぐ手紙を出します。伯母さんはブランデージIOC会長に、朋子は森田選手に、ミーナは猫田選手にです。 <夕方、散歩がてら三人一緒に坂道を下り、開森橋のほとりにあるポストへ、それぞれの手紙を投函した。> <しかしミーナが猫田のために書いた手紙は違った、それはどんな多くのファンレターの中にあっても、紛れることのない特別な一通だった。> <猫田勝敏様 金メダルおめでとうございます。テレビの前で私は泣きそうでした。………つまらない手紙を最後まで読んで下さって、ありがとうございます。また、テレビで応援できる日が来るのを、楽しみに待っています。これからもずっと応援しています。金メダル本当におめでとうございました。さようなら 兵庫県芦屋市 小学校六年生女子より> 私はこの感動の手紙が投函されたポストを探しに、開森橋に出かけました。 ![]() きっと以前六麓荘の散策でご紹介したような丸いポストがあるのだろうと、ポストと感動の対面を期待して探したのですが、いくら開森橋の周りを探してもありません。 ![]() あったのは昭和十三年阪神大水害芦屋川決壊の地の石碑だけでした。 ![]() 家に帰って芦屋ポスト地図というのを調べても、小説で表現された場所にはポストは結局ありませんでした。 小川洋子さんの小説はほとんど実在の物や風景が描かれているのですが、このポストだけは例外でした。 現実と小説をごっちゃにしている私が悪いのですが、今回の散策は大誤算でした。 #
by seitar0
| 2012-10-13 20:34
| 小川洋子
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御影の深田池は色々な小説に出てきますが、知らなかったのが筒井康隆「残像に口紅を」でした。小説の冒頭から御影のお話になります。
![]() <神戸市街の中心部から約十キロ東、阪急電車御影駅のすぐ山側に洒落た二階建てのレストラン・ビルが建っている。そのすぐ近く、深田池という神功皇后ゆかりの古い池の周辺は公園にもなっていて、池の北西側のほとりには七年前マンションができた。佐治勝夫が購入した三DKの住まいがそのマンションの三階なのだった。レストラン・ビルの一階奥の洋菓子店を兼ねた喫茶店に佐治はしばしば出かけ、窓際の席でぼんやり時間を過ごす。> 筒井康隆は主人公佐治のように実際に御影のマンションを仕事場にしていたこともわかりました。 写真の深田池のほとりのマンションのようです。 ![]() http://www.go-smoking.net/special/spe050401001.htm 2005年に「筒井康隆の紫福談」として特別寄稿された記事からです。 <今回はぐっと西へ飛んで、阪急・御影駅前、深田池のほとりにある御影ガーデンシティ一階の「西村屋 和楽」をご紹介しよう。実はその近くにある深田池に面したマンションの一室にわが仕事場があり、そこは書庫にもなっていて、仕事に必要な書物を取りに行くたび、この料理屋に立ち寄るのである。>さて小説に戻って、仕事場のマンション近くにあるレストラン・ビルの一階、洋菓子店を兼ねた喫茶店です。 ![]() <佐治はしばらく窓の外を眺めていた。巨大なマンションの庭が喫茶店の窓ぎわにまで拡がってきている。マンションそのものの壁面の煉瓦色も眼に心地よい。>今はないようですが、なんというお店だったのでしょう。 ![]() <「ここは確か二階の中華料理店が旨いんだったね」>仕事の話の後、二人は二階の中華料理店に移ります。<二人で五種類の料理を注文し、中年にふさわしい食欲で佐治と津田は食べはじめた。>このお店の名前は変わりましたが現在もありました。 食べログからです。「阪急御影駅の北側で深田池の東側にある御影ガーデンシティ2階の広東料理のお店です。昔は「別館牡丹園」として営業していましたが、屋号が替わって黄老御影店になりました。昔から御影山手エリアにふさわしく上品で薄味、体に優しい中華を提供してくれていました。経営者も味も昔のままです。」とのことです。 <やはり阪急電車で帰宅するという津田を御影駅まで見送った佐治は、駅前で少し買い物をした。駅前には小さな商店が十数軒並んでいる。> ![]() 御影駅周辺はグーグルアースの航空写真のように様変わりしています。駅前の商店とは駅の南側だったと思うのですが、現在は少しお店が残っているだけです。 ![]() 鴨子ヶ原の様子も描かれていました。 <六甲山系の麓の佐治のマンションから山道を登ると鴨子ヶ原という山腹の住宅地にたどりつく。見晴らしはよく、神戸市街、大阪湾そして遥か紀伊半島を見渡すことができる。> ![]() さて「残像に口紅を」の内容説明は「言語が消滅するなかで、執筆し、飲食し、講演し、交情する小説家を描き、その後の著者自身の断筆状況を予感させる、究極の実験的長篇小説。」です。私には大変面白い小説でしたが、○○する小説家にはお気をつけください。 #
by seitar0
| 2012-10-12 22:52
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ミーナが喘息の発作で入院した甲南病院は、昭和9年に御影の山の手、市街を見下ろす高台に平生釟三郎が創設した病院です。
![]() この創立者平生釟三郎氏のマンガ本が出版されており、出版社からの説明によると「関西の名門校として知られる甲南学園。その創立者・平生釟三郎は理想の教育を実現するため、幼稚園から大学院までを擁する甲南学園を設立しただけでなく、川崎造船所や日本製鉄の社長、東京海上火災保険の専務を務めた優れた実業家でもありました。その活躍ぶりは、病院設立、企業再生、ブラジルとの外交、さらには文部大臣までと、まさに稀代のマルチプレーヤー!」とのこと。阪神間モダニズムの時代の異色の実業家で傑物だったらしく、探して読んでみようと思います。 ![]() 「ミーナの行進」の甲南病院のシーンです。 <石積みの門柱を入ってゆくと、左手にベージュ色のレンガの外壁が見えてきた。周囲を背の高い常緑樹に囲まれた、重厚な趣の病院だった。玄関ホールの天井には綺麗な飾りガラスが張ってあり、待合室は中庭に面していたが、木々の緑が深すぎて十分に日の光が届いていなかった。ミーナの病室はエレベータを降りて左手にのびる、薄暗い廊下に面した個室だった。> ![]() クラッシックな雰囲気の玄関ですが、正しくはレンガの外壁ではなく、タイル張りの外壁でした。 ![]() 全体図を見ると新館もあり、本館以外の建物は次々と増設されたのではないでしょうか。 ![]() 玄関から入ってすぐにある待合室です。 <病室の窓からは神戸の街と、海に浮かぶタンカーが見えた。けれどもやはり光は遠く、ミーナの横顔は影になっていた。> ![]() http://d.hatena.ne.jp/keyboar/20100331/1270047138 凶刃に倒れたキョンが入院したのが甲南病院でした。この作画のため京都アニメーションのスタッフはロケハンを敢行し、病院に行き、たくさんの写真資料を撮影したそうです。 ![]() 角川書店公式ガイドブック「涼宮ハルヒの消失」の表紙は甲南病院屋上に雪が降る光景でした。 #
by seitar0
| 2012-10-12 07:40
| 小川洋子
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深田池から甲南病院を目指して坂を登っていくと、このような御影の主要スポットを案内するポスターがありました。
![]() 甲南病院の下に聖心女子学院のれんが塀が残っているようです。 小林聖心女子学院の同窓会のホームページに設立までの歴史が詳しく述べられ、昔の写真も公開されていました。 http://www.interq.or.jp/venus/mikokoro/50nen1.htm ホームページによると大正12年に「兵庫県武庫郡住吉村鴨子ヶ原184(現在の神戸市東灘区、甲南病院のすぐ南)にドイツ人の別荘を借り受けてここへ移り、住吉聖心女子学院を設立した。」「建物を取り囲む庭には、ある時は山茶花、またある時は椿と、色とりどりの季節の花が咲き乱れ、ふり返ると、光り輝く神戸の海が眩しく眼下にひろがっている。ときおり、ロザリオを手に松林を散策したり、3-4人で椅子を円型に寄せ合って編物をしたりしているマザーの姿が見られ、公立の学校とはおよそかけ離れた雰囲気をかもしだしていた。」とあり、まだ昭和9年創立の甲南病院もなく山の上にのどかな異国の風情の学院だったようです。 残念ながらこのれんが塀、周りを歩いて探しましたが、見つけることができませんでした。 ![]() グーグルアースの航空写真でしらべても、甲南病院のすぐ下にはマンションがあり、その建設時に、戦火にも耐えてきたれんが塀は撤去されてしまったのでしょうか。 ![]() 住吉聖心の8年前に遡る大正4年に開校された白金の聖心女子学院のれんが塀は三光坂を登っていくとまだ残っています。 ![]() さあようやく甲南病院の正面玄関に到着です。昭和9年実業家平生釟三郎に創立された病院で,当時のクラシカルな建物が残っています。それではミーナのお話に戻りましょう。 #
by seitar0
| 2012-10-10 07:59
| 小川洋子
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