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須賀敦子さんは『黒の過程』、『ハドリアヌス帝の回想』などの著者、マルグリット・ユルスナールに魅せられ、ユルスナールの軌跡に、自らを重ねて、自伝的エッセイ集『ユルスナールの靴』を執筆されています。その中に収められた「皇帝のあとを追って」で、サンタンジェロ城を訪ねたときの様子が書かれています。 サンタンジェロ城は、ハドリアヌス帝の墓として有名ですが創建(西暦123~135年)から中世、ルネッサンス、そして現代に至るまで、何度も改修、近代化され、歴史を通じて教皇領の要塞、法廷、刑務所として機能していたことでも知られています。 ローマ帝国末期には徐々に軍事施設として活用されるようになり、403年にはローマ市内を守るためアウレリアヌス城壁の一部に組み込まれました。 「サンタンジェロ(聖天使)」の名がついたのは、6世紀末からです。伝説によると、ローマでペストが流行した際に、天使と悪魔が街を徘徊しているという噂が広まりました。教皇はローマが疫病から解放されることを祈る行列の先頭で、エリオ橋(後のサンタンジェロ橋)を渡っているとき、サンタンジェロ城の上で剣を鞘に納める大天使ミカエルを目撃します。教皇はミカエルの姿はペストの終焉を告げたと考え、「サンタンジェロ」の名前をつけました。 写真は現在のサンタンジェロ城のミカエル像で、オリジナルは1536年、ラファエロ・ダ・モンテルーポによるもの。ブロンズの翼で飾られた大理石の聖像は、ローマの人々に伝説に記された出来事を思い起こさせ、18世紀にはミカエル像がブロンズで再現され、今も城の屋根を飾っています。 その後、教皇のための要塞として発展し、有事の際には教皇が身を守ることができる施設として増改築が繰り返されます。サンタンジェロ城からヴァチカン市国に向かって伸びている城壁は通路の役割も果たし、教皇が地上ではなく安全な道で逃げられるように準備されていました。 写真はサンタンジェロ城から見えるヴァチカン市国サンピエトロ大聖堂 14世紀までに、霊廟は要塞へと変貌を遂げ、城壁の補強、堡塁が建設され、その内部に新たな部屋、聖ミカエル礼拝堂が増築されました。 17世紀には、城内に天使の中庭が造られ、モンテルーポの大天使ミカエルの永住の地となっています。 1667年には、城へと続くサンタンジェロ橋に天使像が設置され始めました。2年間かけて、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニとその弟子たちは10体のバロック彫刻を制作し、現在も橋を守っています。 #
by seitar0
| 2025-10-03 15:14
| 須賀敦子
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大竹昭子さんは『須賀敦子のローマ』「聖天使城へ」でその姿を次のように述べています。 <はじめてそれを目にしたとき、バースデーケーキのようだと思った。円筒形の台座が鎮座していて、むき出しになった壁面に粗い石や細かい石の層が縞模様をなし、上にケーキのデコレーションのようなものがのっている。だが色はバースデーケーキとはほど遠い土色で、無骨で荒々しい印象があり、夕暮れどきの黒々したシルエットには、おどろおどおどろしい雰囲気すら感じられた。> サンタンジェロ城。日本語では聖天使城。パンテオンを造ったのとおなじハドリアヌス帝が自分自身と後世のローマ皇帝の霊廟として造らせたもので、プッチーニの歌劇「トスカ」の最終幕や、「ローマの休日」にも登場します。 須賀敦子さんは『ユルスナールの靴』「皇帝のあとを追って」で、聖天使城と呼ばれるハドリアヌス帝の墓廟を訪ねます。 <玄関の広間の右手の壁に開いた、小さな黒い長方形と思えたのは、一説にはハドリアヌスを葬ったとされる「骨室」につづく螺旋階段への入口だった。階段といっても、それはひどく緩慢な坂といったほうがふさわしい、緩い傾斜の登り道である。終着点の骨室がどのようなかたちで現れるのかは、厳粛な古代宗教の秘儀のように訪問者にはなにも明かされていない。> 須賀敦子さんは、断面図に示された螺旋状の通路をのぼって、中央部にあるハドリアヌス帝の骨室を目指します。 中央部の骨室に到着したようです。階段の先に観光客が並んでいました。 このような掲示がありました。 「私たちは古代ハドリアヌス廟の中心にいます。(A)ここにはハドリアヌス帝とカラカラ亭までの皇族の遺体が安置されている場所です。」 上の写真の、大理石に刻まれた文章を須賀さんは紹介されています。 <壁の大理石に刻まれていたのは、碑文というのではなく、ハドリアヌスが死の床でつくったといわれる、あの有名な詩の一節だった。 Animula vagula,blandula Hospes comesque corporis, Quae nunc adibis in loca Pallidula,rigida,nudula, Nec ut soles dabis iocos… たよりない、いとおしい、魂よ、 おまえをずっと泊めてやった肉体の伴侶よ、 いま立って行こうとするのか、 青ざめた、硬い、裸なあの場所へ もう、むかしみたいに戯れもせず……> 西暦134年頃、健康上の問題で活動が停滞したハドリアヌスはローマに戻り、アントニヌス・ピウスを後継者に迎え、テヴェレ川のほとりに彼の永眠の地となる巨大な円形霊廟の建設に着手しました。ハドリアヌスは4年後の西暦138年に亡くなりましたが、霊廟の建設は、新たに皇帝に即位したアントニヌス・ピウスによって西暦139年に完成しました。 完成当時の模型が展示されていました。 記念碑の基部は約640フィートの正方形で、大理石張りで、優美なコーニスと青銅の銘板を備えていました。角には騎馬像が並んでいた。その上には、今日まで残るトラバーチン製の大きな円塔がそびえ立っていました。当時は大理石で覆われ、一連の 16彫刻家の技巧の結晶ともいえる彫像の数々。古墳の周囲には、糸杉が風に揺れる空中の陸の島のような姿で守備に立っていました。そして、この空中庭園の中央には、四輪馬車に乗った太陽神の荘厳なブロンズ像がそびえ立っていたのです。
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by seitar0
| 2025-09-29 11:30
| 須賀敦子
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パンテオンは紀元前25年に建設された神殿が起源です。古代ローマ初代皇帝のアウグストゥスの女婿アグリッパにより建設されましたが、のちに火事で焼失してしまい、紀元後2世紀(120年頃)にローマ五賢帝の1人ハドリアヌス帝により再建されたものです。 パリに留学していた須賀敦子さんは1954年の春、友人とパンテオンを訪れます。 ![]() パンテオンは7世紀にキリスト教会に転用され、外観からは教会らしさを感じませんが、内部に入ると十字架や聖母子像が設置されています。 ![]() 須賀敦子『時のかけらたち』「リヴィアの夢―パンテオン」からです。 <入口を過ぎると、私たちのまえには、すっきりと洗練された円形のホールの、とりどりの色大理石を組み合わせて敷きつめた床がひろがっていた。「すっきり」と見えたのは、空間の数学的な完璧さだったに違いない。このホールが天井の高さと床の直径がどちらも43.4メートルという球体に沿って造られていることなど、私は想像もしなかった。> ![]() 円形のホールに入ると天井を指さして見ています。 <やがて、まるく迫りあがりながら想像もつかない高みに視線がみちびかれるにつれて、青みがかった灰色の石の壁面を内部から支えて押し上げるちからづよい空間の存在に気づいたとき、第一の驚きに私は捉えられた。それは私が経験したことのない、計算された「内部」の感覚といえるものであった。 だが、予期しなかったもうひとつの驚きが、第一のそれにつづいた。驚きの原因は、壁面に沿って視線を這いのぼらせて行った頂点で私を待ちかまえていた。そこには、視線そのものが上昇するにあたっての論理も、半球形の穹窿がごく自然に求める最頂部に到達したよろこびをも、根底から無視するような美しい円形の「穴」ー開口部ーが天に向かって開いていた。> ![]() 天井を見上げると、円形の開口部があるのです。小さいように見えて、直径は9メートルです。 雨の日はどうするのかと思ってしまいますが、現在はこのような雨受けになっています。 ![]() 以前は、床のままで、その床は中央に向かって僅かに窪んでおり、真ん中には排水用の穴が開いていたそうです。 <やがて私をイタリアにとどまらせ、この国で長い時間をすごすようになったことと、パンテオンのあいだになんらかの因果関係があるとすれば、あの天井に開けられた、まるい穴を見たことが内在するのを否定できないように私は思う。> ![]() パンテオンの外観です。 その後、須賀敦子さんは、最初に受けた驚愕を確かめようとして、数えきれないほど何度もパンテオンを訪ねています。ローマにさえ行けば緊張と開放を同時に味わうことができ、東京の日常がいやされると述べられていました。 #
by seitar0
| 2025-09-23 15:16
| 須賀敦子
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須賀敦子『アラチェリの大階段』では、「スカリナータ」というイタリア語の解釈からスペイン広場の階段が紹介されますが、続いてアラチェリの大階段について言及します。 <だが、スペイン広場の階段について考えていると、必然的に、ほとんどその対極として、もうひとつの、私がとてもかなわないと考えているローマの階段があたまに浮かぶ。場所は、皇帝たちのローマ時代に、宗教と政治の中心だったカピトリーノの丘。それには、また隣接して、ミケランジェロが設計した「近代ローマ最初の、デザインされた広場」といわれる、あの有名なマルクス・アウレリウスの騎馬像がおかれた広場がある。> カピトリーノの丘の眺め1760年ごろ こちらが広場の中心にあるマルクス・アウレリウスの騎馬像のレプリカ。本物は保全のため後ろにあるカピトリーノ美術館で保管されています。 <名といってべつにないが、Santa Maria Aracoeli サンタ・マリア・アラチェリ教会に通じるところから、アラチェリの階段と呼ばれている。そしてこちらは、トラヴェルティーノよりは硬質で格も高い大理石でできている。> 矢印のところがミケランジェロが設計した広場にあるマルクス・アウレリウスの騎馬像で、黄線で囲ったところがアラチェリの階段です。 この階段はスカリナータではなくスカレアと呼ばれているそうです。そしてスペイン階段と比較し、 <石段の総数だけでいうと138段と122段だから、こちらのほうが低いはずなのに、中世に作られたことから一段の高さが決定的に違うのだろう、むこうのほうが多いにもかかわらず、アラチェリの階段はもともと砦に至る坂道だったことから傾斜が急で、登りながらなんども、うしろをふりかえって高さをたしかめたくなる。> これが急こう配のアラチェリの階段です。 <そのうえ、都心でありながら、(後世のばかな建造物に邪魔をされて)あまり目立たない場所にあって、ミケランジェロの設計になる隣の階段はいつも観光客でいっぱいだが、こちらは、いつもひっそりしている。> こちらはミケランジェロの設計になる隣のゆるやかな階段。 アラチェリの教会は、ローマの庶民にとって身近で大切な「お寺」で、毎年、クリスマスから1月6日の公現祭までのあいだ、ローマの子供たちが親に連れられてこの階段をのぼって教会におまいりする慣わしがあったそうです。 そしてアンデルセンの『即興詩人』に出てくる場面も紹介されています。 <『即興詩人』では、主人公のアントニオがこのお祭りに選ばれて、そのまえで詩をそらんじたこと、九歳の彼が(アンデルセンはダンテのベアトリーチェをまねている)「怪しく濃き目の色、鴉青(からすば)いろの髮、をさなくて又怜悧(さかしげ)なる顏、美しき紅葉(もみぢ)のやうなる手」をした美少女、のちの恋人アヌンチャータをみそめたことが語られている。> 大聖堂の写真です。ここでアントニオは恋人アヌンチャータをみそめたのです。 #
by seitar0
| 2025-09-13 22:18
| 須賀敦子
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須賀敦子『アラチェリの大階段』では、「スカリナータ」というイタリア語の解釈からスペイン広場の階段が紹介されますが、続いてアラチェリの大階段について言及します。 <だが、スペイン広場の階段について考えていると、必然的に、ほとんどその対極として、もうひとつの、私がとてもかなわないと考えているローマの階段があたまに浮かぶ。場所は、皇帝たちのローマ時代に、宗教と政治の中心だったカピトリーノの丘。それには、また隣接して、ミケランジェロが設計した「近代ローマ最初の、デザインされた広場」といわれる、あの有名なマルクス・アウレリウスの騎馬像がおかれた広場がある。> カピトリーノの丘の眺め1760年ごろ こちらが広場の中心にあるマルクス・アウレリウスの騎馬像のレプリカ。本物は保全のため後ろにあるカピトリーノ美術館で保管されています。 <名といってべつにないが、Santa Maria Aracoeli サンタ・マリア・アラチェリ教会に通じるところから、アラチェリの階段と呼ばれている。そしてこちらは、トラヴェルティーノよりは硬質で格も高い大理石でできている。> 矢印のところがミケランジェロが設計した広場にあるマルクス・アウレリウスの騎馬像で、黄線で囲ったところがアラチェリの階段です。 この階段はスカリナータではなくスカレアと呼ばれているそうです。そしてスペイン階段と比較し、 <石段の総数だけでいうと138段と122段だから、こちらのほうが低いはずなのに、中世に作られたことから一段の高さが決定的に違うのだろう、むこうのほうが多いにもかかわらず、アラチェリの階段はもともと砦に至る坂道だったことから傾斜が急で、登りながらなんども、うしろをふりかえって高さをたしかめたくなる。> これが急こう配のアラチェリの階段です。 <そのうえ、都心でありながら、(後世のばかな建造物に邪魔をされて)あまり目立たない場所にあって、ミケランジェロの設計になる隣の階段はいつも観光客でいっぱいだが、こちらは、いつもひっそりしている。> こちらはミケランジェロの設計になる隣のゆるやかな階段。 アラチェリの教会は、ローマの庶民にとって身近で大切な「お寺」で、毎年、クリスマスから1月6日の公現祭までのあいだ、ローマの子供たちが親に連れられてこの階段をのぼって教会におまいりする慣わしがあったそうです。 そしてアンデルセンの『即興詩人』に出てくる場面も紹介されています。 <『即興詩人』では、主人公のアントニオがこのお祭りに選ばれて、そのまえで詩をそらんじたこと、九歳の彼が(アンデルセンはダンテのベアトリーチェをまねている)「怪しく濃き目の色、鴉青(からすば)いろの髮、をさなくて又怜悧(さかしげ)なる顏、美しき紅葉(もみぢ)のやうなる手」をした美少女、のちの恋人アヌンチャータをみそめたことが語られている。> 大聖堂の写真です。ここでアントニオは恋人アヌンチャータをみそめたのです。 #
by seitar0
| 2025-09-13 22:18
| 須賀敦子
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