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ドイツを代表する文豪ゲーテにとって、古代ローマやルネサンスの芸術・文化が息づいたイタリアはかねてからの憧れの地であり、また公務や人間関係の鬱屈から逃れ、精神的な再生を求め、1786年イタリアへ旅立ちました。1816年には滞在中の書簡や日記などをもとにまとめた自伝的作品『イタリア紀行』を発刊しています。 ゲーテが憧れのローマに到着したのは1786年11月1日でした。その感動を次のように述べています。 <どこへ行くのか自分自身にも敢えて明言せず、旅の途中でも案じていたくらいなのだから。ポルタ・デル・ポポロの下を通ったとき、はじめてローマに着いたと実感した。> 黄線で囲ったところ。 <チロルの山々は、いわば飛び越してきた。ヴェローナ、ヴィチェンツァ、パードヴァ、ヴェネツィアなどはよく見て、フェラーラ、チェント、ボローニャはざっと見て、フィレンツエはほとんど見ていない。ローマへ行きたく矢も楯もたまらず、その欲望は一瞬ごとにつのり、もはや足を留めるわけにもいかず、フィレンツェには三時間しか滞在しなかった。いまここに到着して穏やかな気持ちになり、生涯にわたる落ち着きを得たような気がする。> 当時はヨーロッパ中に整備されていた公共の交通手段であった郵便馬車を主に利用して移動したようで、ゲーテは赤矢印の経路で移動し、ドイツを出発してから約2か月でローマのポポロ門に到着しています。フラミニア街道を馬車でやって来る多くの旅人たちで賑わった、ローマの北の玄関口です。 古代ローマ時代のこの場所にはフラミニア門が建てられていました。現在見られるポポロ門は16世紀に建て替えられたものです。 上の写真の市外側にあるファサードはミケランジェロが手掛けたもので、1562年から1565年に掛けて製作されました。正面の4組の円柱は旧サン・ピエトロ大聖堂から移設されたもので、大きなアーチ型通路が中央に1つと、その両脇に2つのアーチ型通路があります。1638年、中央アーチの両側にフランチェスコ・モーキ作の聖ペテロと聖パウロ像が設置されました。 市内側(ポポロ広場側)のファサードはベルニーニが手掛けたもので、1655年12月23日のスウェーデン女王クリスティーナのローマ訪問に合わせて落成されました。 写真の右側にあるのがサンタ・マリア・デル・ポポロ教会。ダン・ブラウン『天使と悪魔』にも登場します。 ポポロ門をくぐると、目の前にポポロ広場が広がります。 中央のオベリスクは古代ローマ時代の紀元前10年に、アウグストゥス帝によりエジプトのヘリオポリスから運ばれてきたラムセス2世のオベリスク。 南に向かって3本の道路が放射状に伸びています。バロック期には広場に面してドームを載せた2つの教会堂(双子教会)が建設されました。右が「サンタ・マリア・ディ・ミラコリ教会」、左が「サンタ・マリア・ディ・モンテサント教会」です。 子供のころからローマに憧れていたゲーテは「わが青春の夢という夢がいま生き生きと眼の前に見えるのだ。」とその感激を述べていました。
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by seitar0
| 2025-10-26 10:54
| 海外
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白いるかを見に、久しぶりに横浜に行きました。 前日の夕方に湊の見える丘公園に行くと、国際信号旗のUW旗(航海の安全を祈る)が風にたなびいていました。 『コクリコ坂から』の舞台は、1963年の港町・横浜。映画の中には、当時の山下公園や桜木町駅などロケ地となった場所が登場し、ノスタルジックな横浜が魅力的に描かれています。 調べると『コクリコ坂からビジュアルガイド~横浜恋物語~』という本まで発刊されており、横浜の観光地巡りができます。 港の見える丘にある「コクリコ荘」に暮らす16歳の主人公・松崎海は、亡き父を思い、毎朝海に向かって「安全な航行を祈る」信号旗を揚げています。 脚本では次のように書かれている場面です。 <庭先へ出た海、旗竿に歩み寄り、素早く信号旗をくくりつけ揚げる。庭の向こうの木立の先には朝陽が届いている。さわやかな空に「航海の安全を祈る」UとWの旗が翻る。横から朝陽に輝き始めた海を眺める海。海からは木立と屋根でタグボートは見えない。> <光の中を走る小型のタグボート。学生帽姿の俊がブリッジに立ち、信号旗を揚げる。答礼旗とUW(ありがとう)が翻る。汽笛一声。俊、索をくくり終えて丘を見る。> さて、海が暮らす港が見える丘の上の下宿屋・コクリコ荘は山手に残っている西洋館の山手資料館や山手111番館などをイメージして描かれたものらしく、コクリコ坂も谷戸坂がモデルとも言われています。 しかし、コクリコ荘の場所として私の個人的なイメージは港の見える丘公園の登り口にあるフランス山の領事館のあったあたり。 今も旗竿のかわりに復元された風車がまわっています。 #
by seitar0
| 2025-10-21 10:46
| 横浜
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ダン・ブラウンの小説『天使と悪魔』は、ヴァチカンの新たな教皇を決めるコンクラーヴェを舞台に、かつてヴァチカンから弾圧されたガリレオを中心とした科学者たちの秘密組織イルミナティの残党が、驚異的な破壊力を持つ「反物質」で、ヴァチカン全体の破壊を計画するという奇想天外な物語。トム・ハンクス主演で映画化されヒットしました。 今年も4月21日にローマ教皇フランシスコが帰天したことに伴いコンクラーヴェが実施され、4回目の投票でアメリカ合衆国出身のロバート・フランシス・プレヴォスト枢機卿が新教皇に選出され、「レオ14世」を名乗ることになりました。 また須賀敦子さんは1958年のピオ12世の帰天に伴うコンクラーヴェの街の様子を「ローマ便り」で詳しく述べられています。 <昨日以来、だれもかれも顔をあわせれば、白だった、黒だったと大騒ぎです。煙突といえば、もっともっとりっぱなものを想像していたのですが、直径二、三十センチといったところ、どこかのお風呂の煙突をおもわせるような簡単なものです。きのうも一度はサン・ピエトロの広場から、一度はテレビでみましたが、はじめは必ず白がでるので、みんな大騒ぎです。> この煙突の高さは、高さ約1メートル、平均直径約45センチでコンクラーベが行われる度に屋根の上に煙突が接続されるようです。 煙は投票用紙に化学薬品を混ぜて焼却し、教皇選挙の結果を外部の人に伝える役割を担い、教皇が選出されると白い煙、選出されない場合は黒い煙を出すのです。 <選挙は朝二回昼二回あるとかいうはなしで煙はひるまえと夕方の二度でます。昨今などサン・ピエトロの広場は、三十万の人出で、付近の交通はとまってしまいますし、いまのところ、ローマの人はみな上のそらといったところです。どなたが教皇になられるか、また戴冠式など、当分ローマの話題はつきないようです。> この時は何と3日間、11回に及ぶ選挙の結果、ようやくヴェネツィア大司教、ジュゼッペ・アンジェロ・ロンカッリ枢機卿が選ばれ、ジョバンニ二十三世となりました。 ダン・ブラウン『天使と悪魔』ではサン・ピエトロ大聖堂が次のように描かれています。 写真はサンタンジェロ城から見たサン・ピエトロ大聖堂。 <「空からのサン・ピエトロ大聖堂を見るのはこれがはじめてだ。大理石のファザードが午後の日差しを浴びて焔のごとく燃えている。> こちらが大理石のファザード。 <聖人、殉教者、天使の彫像百四十体が飾られたこの大建造物は、横幅がフットボール競技場の二倍、縦はなんと五倍程度の長さを有する。洞窟を思わせる聖堂内部は六万人を超える参拝者を収容できる。> 聖堂内部です。 この聖堂の外側のドームの頂上まで登ることができます。 鉄格子柵に見学者が沢山見えます。 <しかし、信じられないことに、これほど巨大な要塞があっても、正面の広場はまったく見劣りしない。御影石の石畳が無秩序にひろがるサン・ピエトロ広場は、ローマの雑踏に囲まれながらも驚くほど広大で、さながら古風なセントラル・パークといったところだ。> 聖堂の上から見たサン・ピエトロ広場です。 黄線で囲ったところが、システィナ礼拝堂。 こちらはヴァチカン美術館。 <大聖堂の正面に接する巨大な楕円の広場には、二百八十四本の柱が同心の弧をなして四列に並んでいる。広場の壮大さを引き立たせるために用いられた建築上のだまし絵だ。> 240本もの柱があったとは。 教皇がおでましのときは、広場は世界各国から集まった群衆でこんな光景になるようです。
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by seitar0
| 2025-10-19 16:47
| 須賀敦子
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ナヴォーナ広場は、1世紀にドミティアヌス帝が造らせた競技場が元となって縦に細長い特徴的な形をしています。この広場を世界的に有名にしているのは、その美しさ。広場中心にはバロック彫刻の傑作といわれる、ベルニーニ作の「四大河の噴水」があり、その向いには曲線が美しい聖アニェーゼ教会がそびえています。 ![]() この広場は須賀敦子さんもお気に入りの場所だったようで、『ローマに住みたい』で、ナヴォ―ナ広場のカフェで過ごす風景が描かれています。 上の写真のように、ナヴォーナ広場にはカフェやレストランが並んでいて、美しい景色を眺めながらのんびり過ごせます。 <ローマ時代の競技場のひとつで長い楕円形につくられこの広場は車の乗り入れが禁止されているから、比較的、のんびりすわっていられる。遠慮知らずの、汚ならしいハトがテーブルの上を闊歩して、サンドイッチを食べてしまわないように気をつけてさえいれば。> 南北に長い広場の北側にある現在の「ネプチューンの噴水」は1878年になってやっと彫刻家アントニオ・デッラ・ビッタとグレゴリオ・ザッパラが完成させたもの。 2人の彫刻家によるデザイン、グレゴリオ・ザッパラ作の『天使とネーレーイスと海の馬と、アントニオ・デッラ・ビッタ作の『タコと戦うネプチューン』を合わせたものです。 中央にはベルニーニの「四大河の噴水」があります。 真ん中から立っているのは、古代ローマ時代に皇帝がエジプトから持ち帰ってきたオベリスク。 『四大河の噴水』のタイトル通り、この作品は当時(17世紀)に考えられていた世界の四つの大きな河を表し、四人の男性像がそれぞれの河ということになります。 四人の男性の中に、顔を布で覆っている人がいます。 ドナウ川の象徴は、教皇のエンブレムを手で触れる体勢で表現されています。 南側には「ムーア人の噴水」。 ムーア人とは北アフリカのベルベル人のことで、オバケイルカと戦うムーア人と口から水を出す複数のムーア人の彫像が配されています。 さて須賀敦子さんのエッセイ「ローマに住みたい」は次のように終わります。 <地面をひょこひょこと歩いていたハトが、ひょいとテーブルに跳びあがって、お皿をのぞきにくる。いやだなあ。胸毛がまんあかのあたりで乱れて、やわらかそうな白い羽毛が見えている。こんなハトといっしょに、ローマに住むのもわるくないかもしれない。> ローマは住んでみたくなる街でした。
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by seitar0
| 2025-10-11 10:33
| 須賀敦子
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『即興詩人』はアンデルセンがイタリア旅行で訪れた体験をもとにまとめ上げた自伝的小説で1835年に発表されました。 須賀敦子さんがローマに留学したとき、最初に父親からとどいた小包は、岩波文庫の森鴎外訳『即興詩人』でした。 須賀敦子『遠い朝の本たち』「父ゆずり」からです。 <「この中に出ている場所にはみんな行ってください」という。ほとんど電報のような命令がページにはさんであった。> そこにはイタリア各地の自然と風俗が美しく描かれています。 私も訪ねてみるとすごい人だかり。 ところで安野光雅さんの『繪本即興詩人』は格好の『即興詩人』入門書。 トレヴィの泉が、挿絵入りで紹介されています。 『繪本即興詩人』からです。 <パンテオンの近く、角を曲がるとトレヴィの噴水に出る。トレヴィの泉の石像の「重き石衣を風に吹かせて」という言い方は、この像にいかにもぴったりしていて、本当に石が風になびくのではないかと思わせられる。> 実際にはこのような感じです。 森鴎外訳『即興詩人』では、次のように詳しく描写されています。 <こゝに古き殿づくりあり。意(こゝろ)なく投げ疊(かさ)ねたらむやうに見ゆる、礎(いしずゑ)の間より、水流れ落ちて、月は恰(あたか)も好し棟の上にぞ照りわたれる。河伯(うみのかみ)の像は、重き石衣(いしごろも)を風に吹かせて、大なる瀧を見おろしたり。瀧のほとりには、喇叭(らつぱ)吹くトリイトンの神二人海馬を馭したり。その下には、豐に水を湛(たゝ)へたる大水盤あり。> 河伯とはポセイドンのことです。 トレヴィの泉は1762年に完成していますが、現在もそのままの姿が保たれているのが、よくわかります。 『繪本即興詩人』に戻りましょう。 <この泉のそばで、アントニオは見知らぬ男の子が詩を唱えるのを聞き、また画工フェデリゴにもぱったり出会う。彼に「そなたも即興の詩を作れ。そなたは固(もと)より詩人なり」と言われ、アントニオは心にひらめくものを感じる。 「まことに詩人とは、見るもの、聞くものにつけて、おもしろく歌ふ人にぞありける。」> ここから、アントニオは興味を覚え、 <以来「我世は夢の世、空想の世となり」、街にあって車のとどろくのを聞いても、家にあって臥床の中にあっても、「ただ詩をおもふより外あらざりを」ということになってしまった。> と、少年アントニオは目にするもの、耳に聞くものを言葉にのせ、即興詩を始めることになりました。 #
by seitar0
| 2025-10-05 15:35
| 須賀敦子
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