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横浜を舞台にした『霧笛』をはじめ『鞍馬天狗』他、数々の名作をホテルニューグランドで生み出しています。その部屋はマッカーサー・スイートの隣の部屋で、今でも、318号室は「天狗の部屋」と名付けられています。 ![]() 部屋の前には大佛次郎がニューグランドホテルを舞台に執筆した『新樹』が展示されていました。大佛次郎は『新樹』と題した小説を何作か書いていますが、週刊朝日に昭和14年に連載した作品で、村上光彦編・大佛次郎セレクション『姉』に収められています。 ![]() 『新樹』は、ニューグランドと思われるホテル暮らしの孤独な紳士が、若い時に恋人に産ませた自分の娘を、いまは亡き恋人の妹の配慮により、ホテルのラウンジでかげながら見ることができるという物語。 小説は次のように始まります。 <ボーイが注文を聞きに行くと、「いつもの」といいつける。大体このホテルには、外国航路の汽船の送迎の客が一夜を泊まるか春秋の根岸の競馬の折りに上方筋の神戸、大阪の客が集って来る程度で、日本人の永逗留の客は珍しかった。殆ど全部が外国人である。三階の三一八号室に泊まっている根岸氏という中年も初老に近い品のいい紳士の客が部屋のボーイ達の間でも話題に登ったのも同じ理由からだった。> 主人公は318号室に泊まっている根岸氏で、風貌なども、まさに大佛次郎自信をモデルにしたような人物。この小説が執筆されたのは昭和14年のことで、ニューグランドの宿泊客は外国人が多かったようです。 <それにしては根岸氏のところへかつて客が来たことはなかった。孤独だというのが、この人の特徴である。いつでも独りでいる。部屋にいて窓際に椅子を出して公園の緑の木々の向こうに、汽船のいる港を眺めている時は無論だが、外出する時もそうである。> ![]() こちらはタワー館5階のパノラミックレストラン ル・ノルマンディから見える港の景色です。 <その性質が殊に鮮明になるのは、灯りがともってから日課のようにホテルの地階にある酒場へ降りた時だった。洋酒に慣れているらしく、また嗜む習慣がついていると見え、夜は必ず、酒場に降りて来て、空いている椅子を見つけて腰をおろすのである。酒はビスキの五つ星ときまっていた。> ![]() 大佛次郎がシーガーディアンンで飲んでいたお酒もコニャックの「ビスキー」でした。 <この孤独の根岸氏が、ある夜、いつものように酒場へ行こうとして三階から降りて来た時に、エレヴェーターを出て ―いわばホテルの中の大通りといってもよい玄関に降りる大階段の中央で、ホテルの者でなく客の中から呼び止められたのだから、端から眺めて珍しい出来事だった。> ![]() 1927年に誕生したホテルニューグランド。 濃紺の絨毯を敷き詰めた大階段、レトロ・ベージュの手摺はイタリア製のタイルです。 ここで幾多の華やかなドラマが生まれたことでしょう。私が訪ねた時は純白のウェディングドレスの新婦の写真撮影中でした。 『新樹』では主人公の根岸がここで亡き恋人の妹と出会い、物語が展開していきます。 #
by seitar0
| 2025-11-18 16:54
| 横浜
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須賀敦子『ヴェネツィアに住みたい』を読みながら、フィレンツェから列車でヴェネツィアを訪ねました。 <イタリアで、いちばん意表をつかれた都市は、ヴェネツィアだった。滑稽なはなしだけれど、私はミラノに十年も住んでいて、ヴェネツィアが島だということを知らなかった。島だ、と聞いても、なんとなく、そんなはずはない、と信じられなかったのだ。どうしてだろう。はじめてミラノからヴェネツィアに行ったとき、メストレの駅を出てまもなく、灰緑色にきらめく冬の海をわたる、細くて長い道を列車がゆっくり走ったとき、はじめて、ああ、そうか。ヴェネツィアはほんとうに島なんだ、と思った。> ヴェネツィアは、イタリア北東部のアドリア海に面した潟(ラグーナ)に建設された都市。810年以降は膨大な数量の木杭を用いた基礎工法で、その上に築き上げられた街ですから、一般的な島に見えず、私もどこか陸続きになっているのではと思っていました。 JAXA地球観測センターの「千年にわたり作り上げた水の都、ヴェネツィア」という記事があり、ヴェネツィアの衛星写真が公開され、解説されていました。 ヴェネツィア周辺拡大画像を見ると、大陸とは橋で結ばれているのがよく分かります。大陸側のメストレ駅から枝分かれした線路が海に突き出し、リベルタ橋を渡って10分ほどでヴェネツィアに着きます。 リベルタ橋を渡る列車の車窓から見えるヴェネツィアの街。 下の写真はJAXAの衛星写真のヴェネツィアを拡大したもので、リベルタ橋を渡ったところがサンタ・ルチア駅です。 <終着駅サンタ・ルチアを出たところの、水上バスの停留所に立って海の匂いをかぐと、私は、いつも、ああ、またヴェネツィアに来たな、と思う。水に浮かんだ停留所は、近くをモーターボートが通ったりすると、ぐらりと揺れる。古タイヤでまわりを囲んだ停留所に、ぽかんとバスがぶつかっても、ぐらり。あるとき、ヴェネツィアに会合があって滞在したとき、どこへ行くにもこの水上バスというのが心もとなかった。足の下が水というのが、たよりなく困った。> 正面に見えるのが終着駅サンタ・ルチア。 駅の前に水上バス(ヴァポレット)の停留所があります。下の写真のように停留所も水に浮いています。 これが須賀さんが「足の下が水というのが、たよりなく困った」と言われている所以でしょう。 ヴェネツィア本島では車は走れません。衛星写真からわかるように、リベルタ橋を渡ったところに駐車場専用の島が作られています。 帰りはここからバスでマルコポーロ空港に向かいました。 リベルタ橋は鉄道と車道が並行して走っています。 帰国前にバスの窓から撮ったヴェニスです。 #
by seitar0
| 2025-11-15 16:05
| 須賀敦子
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須賀敦子『ヴェネツィアに住みたい』を読みながら、フィレンツェから列車でヴェネツィアを訪ねました。 <イタリアで、いちばん意表をつかれた都市は、ヴェネツィアだった。滑稽なはなしだけれど、私はミラノに十年も住んでいて、ヴェネツィアが島だということを知らなかった。島だ、と聞いても、なんとなく、そんなはずはない、と信じられなかったのだ。どうしてだろう。はじめてミラノからヴェネツィアに行ったとき、メストレの駅を出てまもなく、灰緑色にきらめく冬の海をわたる、細くて長い道を列車がゆっくり走ったとき、はじめて、ああ、そうか。ヴェネツィアはほんとうに島なんだ、と思った。> ヴェネツィアは、イタリア北東部のアドリア海に面した潟(ラグーナ)に建設された都市。810年以降は膨大な数量の木杭を用いた基礎工法で、その上に築き上げられた街ですから、一般的な島に見えず、私もどこか陸続きになっているのではと思っていました。 JAXA地球観測センターの「千年にわたり作り上げた水の都、ヴェネツィア」という記事があり、ヴェネツィアの衛星写真が公開され、解説されていました。 ヴェネツィア周辺拡大画像を見ると、大陸とは橋で結ばれているのがよく分かります。大陸側のメストレ駅から枝分かれした線路が海に突き出し、リベルタ橋を渡って10分ほどでヴェネツィアに着きます。 リベルタ橋を渡る列車の車窓から見えるヴェネツィアの街。 下の写真はJAXAの衛星写真のヴェネツィアを拡大したもので、リベルタ橋を渡ったところがサンタ・ルチア駅です。 <終着駅サンタ・ルチアを出たところの、水上バスの停留所に立って海の匂いをかぐと、私は、いつも、ああ、またヴェネツィアに来たな、と思う。水に浮かんだ停留所は、近くをモーターボートが通ったりすると、ぐらりと揺れる。古タイヤでまわりを囲んだ停留所に、ぽかんとバスがぶつかっても、ぐらり。あるとき、ヴェネツィアに会合があって滞在したとき、どこへ行くにもこの水上バスというのが心もとなかった。足の下が水というのが、たよりなく困った。> 正面に見えるのが終着駅サンタ・ルチア。 駅の前に水上バス(ヴァポレット)の停留所があります。下の写真のように停留所も水に浮いています。 これが須賀さんが「足の下が水というのが、たよりなく困った」と言われている所以でしょう。 ヴェネツィア本島では車は走れません。衛星写真からわかるように、リベルタ橋を渡ったところに駐車場専用の島が作られています。 帰りはここからバスでマルコポーロ空港に向かいました。 リベルタ橋は鉄道と車道が並行して走っています。 帰国前にバスの窓から撮ったヴェニスです。 #
by seitar0
| 2025-11-15 16:05
| 須賀敦子
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ホテルニューグランドの西洋料理について、横浜生まれの作家・獅子文六は『続・飲み・食い・書く』の中でこう称えています。 <戦前、このホテルにはワイルという有名なスイス人のコックがいて、仏・伊料理が得意だった。格調ある料理で、あれだけのものはその頃、東京では食えなかった。> そのホテルニューグランドから、日本全国に広まった伝統料理が三つあります。 一つ目は、初代総料理長サリー・ワイルが体調を崩した外国人客のために考案したシーフードドリア。二つ目は、二代目総料理長・入江茂忠が接収時代に生み出したスパゲッティ・ナポリタン。そして三つ目が、アメリカ人将校夫人たちを喜ばせようと、パティシエが考案したプリン・ア・ラ・モードです。 これらの伝統料理が次々と誕生した背景には、サリー・ワイルの「西洋料理」への柔軟で革新的な考え方があったように思われます。 サリー・ワイルは1927年ホテルニューグランドの開業にあたりパリのホテルより招聘され、30歳の若さで初代総料理長に就任しました。 神山典士『初代料理長サリー・ワイル』からです。 <もう一つ、オープンに際して期待以上の好評を博したものがある。それは、フランスから招いた若きスイス人シェフ、サリー・ワイルの働きだった。オープンの約一か月前に来日したワイルは、着任早々ホテルに対して一つの提案をしている。「一階の酒場になる予定の部屋をグリルルームにしよう」酒場のカウンターを部屋の左隅に押しやり、軽い食事や飲み物を摂れるレストランを海岸通りに面した一階につくろうという提案だった。今聞けば驚くにあたらないが、それは当時の西洋料理界においては「革命」的な提案だった。> 上の写真の角の一角にあるザ・カフェはワイルの提案によってできたカフェレストランだったのです。 <もちろん「グリル」という言葉も日本にはなかった。だから、およそワイルの提案は、常識やぶりだったことになる。「グリルでは一品料理も出しましょう。お客様は欲しい料理だけを注文すればいい。コートを着たままでも、ネクタイ等の正装でなくてもいい。料理の途中でお酒を飲んでも、タバコを吸っても構いません。料理を気軽に楽しんでもらえるレストランにしましょう」ワイルはそう進言し、オープンまでに一階正面左側の部屋を改装させた。> こうして生まれたグリルルームは、当時の日本では珍しい自由でカジュアルなレストランでした。格式ばかりを重んじていたホテルレストランに、パリの下町のような開放的な空気を吹き込み、アラカルト注文やドレスコードの緩和など、「お客様本位のサービス」を実践したのです。 私もこれまで、ホテル発祥のシーフードドリアとスパゲッティ・ナポリタンは味わってきました。そこで今回は、三つ目の伝統デザート プリン・ア・ラ・モード に挑戦しました。 このデザートは戦後の接収時代、甘いもの好きのアメリカ人将校を喜ばせようと、当時のパティシエが創作したものです。 自家製プリンとバニラアイスに、色とりどりのフルーツを綺麗にカットして盛り合わせ、真っ赤なチェリーを添えた華やかな一皿。 脚付きの横長ガラスの器――“コルトンディッシュ”に盛られ、その見た目もまさに“ア・ラ・モード(流行の)”でした。 ホテルの公式サイトには、こう解説されています。 <「向こう(アメリカ)のデザートは、本当に“ドーンッ”といった感じで出てきますよね。 プリン一個だけというわけにはいきません。そこで、アイスクリームやアメリカから送られてきた缶詰の果物と組み合わせて出したんです」ただ、これだけの量のデザートを従来のデザート皿にのせるのは難しかったため、コルトンディッシュという特殊な器に盛りつけて供されました。> プリン・ア・ラ・モードはやがて、全国の喫茶店でも定番デザートとして愛されるようになりましたが、2010年代以降になると「絶滅危惧種」と呼ばれることもあり、今ではなかなか味わえません。 ちなみに、これによく似たデザートに、アメリカ・ペンシルバニア州で20世紀初頭に生まれたバナナスプリットがあります。 『会話が続く!リアル旅英語』でも紹介されており、サマー先生が “I haven’t had a banana split in a long time.”と話していました。 アメリカ本場のバナナスプリットは、まさに「ドーンッ」としたボリューム感。見た目も味も豪快そのものです。 さて、あなたはどちら派ですか? 繊細で上品なプリン・ア・ラ・モード、それとも陽気で甘いバナナスプリット? #
by seitar0
| 2025-11-11 10:47
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浅田次郎『日輪の遺産』は太平洋戦争終戦末期、マッカーサーの財宝を巡る極秘作戦に関わった帝国陸軍将校たちと20名の少女たちの運命を描いた物語。映画化もされました。 浅田次郎は史実をおりまぜながら、厚木に到着したマッカーサーがホテル・ニューグランドに向かう様子を描いていました。 <ダグラス・マッカーサーと彼の幕僚団を乗せた専用機は、護衛戦闘機の一機すらも従えず、ゆっくりと厚木の空に天下ってきた。午後二時五分。ファンファーレが鳴り響き、ドラムがロールを打った。バターン号の後部ドアが開くと、その男はまずタラップの上で立ち止まり、悠然とカメラに対してポーズを作った。> 映画での連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー役は名優ジョン・サべージでした。 <滑走路の端に、黒塗りのリンカーンコンチネンタルが一台。それだけは少しましだったが、後に続いている乗用車は、どれも年代不明、国籍不明のオンボロであった。> 一行の横浜への移動のため、日本側はどうにか50台をかき集めたのですが、中には木炭車やら旧式のトラックが含まれており、先導車は消防車でした。それでも、マッカーサーら司令部幕僚には自決した阿南惟幾陸軍大臣の公用車であったリンカーンや、閣僚らの高級公用車が準備されました。 <「このリンカーンは、陸軍大臣の専用車だったそうです。将軍」「ほう」、とマッカーサーは満足げに肯いた。彼にとって車の由緒正しさは、性能よりも大事なことであった。「阿南将軍は地下鉄で通勤しているのか」「いえ自殺しました。ハラキリです」「ハラキリ……たまらんな」マッカーサーの端正な口元がわずかに歪んだ。> ![]() <そうこうするうちに、隊列は百マイル分の時間をかけて、ようやく横浜の町にたどりついた。名高い港湾都市が真っ白な瓦礫の海に変わっていることに、誰もが言葉を失った。「ポンペイだな、まるで」笑う者はいなかった。> <ホテル・ニューグランドの正面玄関に車をつけると、ダグラス・マッカーサーはクレオパトラのもとに向かうシーザーのように、威厳をもって階段を駆け昇った。従兵たちがライフルを構えながら後に続いた。広い階段の上は吹き抜けになったロビーである。将軍たちは立ち止まって、空間を飾るみごとな意匠に目を丸くした。> 正面玄関をを入ると、まず目に飛び込んでくるのがこの大階段です。 ホテルニューグランドは、関東大震災からの横浜復興のシンボルとして建設され、1927 年 12 月 1 日に開業しました。そのシンボルマークは。“不死鳥” を意味するフェニックスでした。 <「しかも、われわれはこのホテルのシンボルマークについて考えねばならない。これだ」と、マッカーサーは短靴の爪先で、藍色の絨毯に描かれた、東洋的な紋様を示した。「不死鳥(フェニックス)―わかるか、諸君。この国では不死鳥の精神がホテルのシンボルマークになるほど尊ばれているのだ。日本は死なない。常に復活する。われわれはこの国を復興させ、なおかつ復活と戦うためにやってきた。それを肝に命じておけ」> マッチの箱にも描かれていたフェニックスのシンボルマーク。 よく見るとエレベーター扉の脇の飾りもフェニックスでした。
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by seitar0
| 2025-11-07 15:02
| 横浜
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