|
カテゴリ
全体 芦屋 パボーニ 小川洋子 筒井康隆 須賀敦子 夙川 森鴎外 遠藤周作 アレックス・カー 小松益喜 薄田泣菫 北尾りょうのすけ 有島武郎 大仏次郎 島崎藤村 横浜 志賀直哉 鴨居羊子 田辺聖子 その他 御影 増山実 フェルメール 小泉八雲 高田郁 岡本 武庫之荘 甲陽園 苦楽園口 西宮北口 甲山 奈良 阪神西宮 谷崎潤一郎 東京 村上春樹 大阪 玉岡かおる 清水博子 パール・バック 京都 甲子園 神戸 野坂昭如 堀辰雄 司馬遼太郎 原田マハ 谷川流 陳舜臣 甲東園 竹中郁 森見登美彦 海外 有川浩 小田実 小松左京 満池谷 宝塚 門戸厄神 辻原登 六甲山 西村伊作 武庫川 箕面 香櫨園 城崎 詩 宮本輝 阪田寛夫 キョウコ・モリ ヴォーリズ 稲垣足穂 佐藤愛子 森鴎外 森田たま 山崎豊子 三田アートガーデン 井上靖 有馬 北海道 田中康夫 平中悠一 高殿円 岩谷時子 西東三鬼 池田 かんべむさし 風見梢太郎 箱根 未分類 以前の記事
2025年 11月 2025年 10月 2025年 09月 2025年 08月 2025年 04月 2025年 03月 2025年 02月 2025年 01月 2024年 12月 2024年 11月 2024年 10月 2024年 09月 2024年 08月 2024年 07月 2024年 06月 2024年 05月 2024年 04月 2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 2022年 05月 2022年 04月 2022年 03月 2022年 02月 2022年 01月 2021年 12月 2021年 11月 2021年 10月 2021年 09月 2021年 08月 2021年 07月 2021年 06月 2021年 05月 2021年 04月 2021年 03月 2021年 02月 2021年 01月 2020年 12月 2020年 11月 2020年 10月 2020年 09月 2020年 08月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 05月 2020年 04月 2020年 03月 2020年 02月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 11月 2012年 10月 フォロー中のブログ
最新のコメント
メモ帳
最新のトラックバック
ライフログ
華麗なる一族
検索
タグ
その他のジャンル
ブログパーツ
最新の記事
外部リンク
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
ダグラス・マッカーサーは熱心なプロテスタント信徒で、日本を統治する中で、2500人もの宣教師を日本に入国させたり、1000万冊の日本語訳聖書を配布したりして、キリスト教を基盤とした西洋文明の定着を図りました。 ![]() しかし、何とそのマッカーサーが、昭和20年9月2日の戦艦ミズーリでの降伏調印式を終えて、お忍びで米軍将官を従えて鎌倉鶴岡八幡宮を参拝していたのです。 玉岡かおるさんの小説『負けんとき』では、献堂式に出席するため神戸女学院を訪れたウィリアム・メレル・ヴォーリズが妻の満喜子とともに岡田山キャンパスの敷地内に残された廣田神社の摂社、岡田社の前に立ち、柏手を打つ場面が描かれていますが、これは創作です。(記録ではヴォーリズは神戸女学院の献堂式には出席していません) プロテスタントでは許容されるのかもしれませんが、私にはクリスチャンが神社を参拝するなど想像もできないことです。マッカーサーは何故鶴岡八幡宮に詣でたのでしょう。 河原匡喜『マッカーサーが来た日』に、昭和20年9月18日付読売報知新聞に掲載されたマッカーサーの鶴岡八幡宮参拝の記事が紹介されています。 ![]() <九月二日、降伏調印式の日である。「その日午後三時ごろ、鎌倉鶴岡八幡宮社前三の鳥居前に十四名の米軍将官を乗せた濃緑色の自動車がゆるゆると止まった。一行は“馬車の乗り入れを禁ず”と書かれた制札を見ると自動車から降り、長い砂利道を踏んで拝殿前に参進、先頭の将軍が恭しく挙手の礼拝をすると(それがマ元帥であることが後になって知れた)他の将軍たちもそれに倣って厳かな参拝を行った。参拝を終わると元帥は神札授与所で白羽の“破魔矢”の授与を乞い、他の幕僚達の手にもそれぞれ一本の破魔矢が渡された。そうして再び拝殿に向かって礼拝すると一行は静かに長い石段を下った。その間元帥の厳粛な態度は聊かも崩れなかった。」> ![]() <マッカーサーは宮司に自分は四十年前に参拝したと話している。昭和二十年の四十年前、日露戦争の終わった翌年の明治三十九年である。父アーサー・マッカーサーの副官として日本に来た年であった。> マッカーサーは連合軍総司令官として日本に来るまでに、何度も日本の土を踏んでいました。 明治36年ウエストポイントの陸軍士官学校を首席で卒業した後、明治39年父親が駐日大使館付武官に就任したとき副官として駐在、昭和10年フィリピンの軍事顧問として日本軍人を訪ねたとき、昭和12年二度目の結婚相手のジーン夫人とホテル。ニューグランドに宿泊。 これらの経験からマッカーサーは東洋の文化に精通し、理解していることを自認していました。さらに『マッカーサー回想録』には日本国民特有の“武士道”と呼ばれる伝統的な騎士道精神を理解し、それを確信していたと書かれています。 ![]() 『武士道』を著した新渡戸稲造もクリスチャンでしたが、「武士道の源はどこにあるか」によれば、「仏教は武士道に運命を穏やかに受け入れ、運命に静かに従う心をあたえる。具体的にいうならそれは危機や惨禍に際して、常に心を平静に保つことであり、生に執着せじ、死と親しむことであった」。また「仏教が武士道にあたえられなかったものは、日本古来の神道がそれを十分に補った。他のいかなる宗教から教わらないような、主君に対する忠誠、祖先に対する尊敬、親に対する孝心などの考え方は、神道の教義によって武士道へ伝えられた」、「武士道は、道徳的な教義に関しては、孔子の教えがもっとも豊かな源泉となった」と述べられており、、武士道はいわば、仏教、儒教、神道の影響を受けて形成されているとしているのです。 この日本人の思想をリスペクトしていたマッカーサーだから将官を連れて鶴岡八幡宮に参拝したのでしょう。鶴岡八幡宮は、武家社会の起点となる鎌倉幕府を築いた源頼朝の祖先源頼義が、京都の石清水八幡宮を勧請し、源氏の氏神として八幡神を鎌倉の由比ヶ浜辺に祀ったことに始まります。その後、源頼朝が現在の地にお還しし、鶴岡八幡宮の基礎を造ったのです。マッカーサーはそのような歴史も知っていて、破魔矢まで授かったのでしょう。
![]() 日本の文化を理解していたマッカーサーだからこそ、日本の天皇制が維持されたのかもしれません。 #
by seitar0
| 2025-11-04 14:34
|
Trackback
|
Comments(0)
連合軍進駐早々の居住施設や総合指令部区域として横浜が選ばれたのは連合軍の指示によるものではなく、日本政府の提言によるものでした。昭和30年8月12日付け日本経済新聞に掲載された帝国ホテル社長犬丸徹三氏の手記からです。 <私はまず、マ元帥の宿舎を至急さがさねばならなかった。東京は避けようというのが一致した意見で、横浜に決まったが、神奈川県知事はこれをきらって横須賀を主張したりしたが、とにかくその晩のうちに、焼け残ったニューグランドホテルを抑えることができた。ホテルならマ元帥以下将官十五人は楽に収容できるからいいのだが、これでいかんといわれる場合を考え、民間の家屋を接収して一応準備する二段階構えの作戦でんぞんだ。> そのような経緯で、厚木飛行場に到着したマッカーサーは将校たちと日本側がかき集めた古いぼろ車の列に乗り込み、横浜に向かいます。マッカーサーが乗り込んだのは阿南陸軍大臣が使っていたリンカーンでした。 写真は戦後の焼け野原に残ったホテル・ニューグランド 猪瀬直樹の小説『ジミーの誕生日』では、史実に基づいて次のように描いています。 <旧式の赤い消防車はサイレンを鳴らしっぱなしで、そのうしろにマッカーサー一行の車列がつづいた。マッカーサーにはおんぼろのリンカーンがあてがわれた。それでも車列のなかでは群を抜いていた。あとは木炭車ばかりで、スピードが出ないだけでなくしばしばエンジンの調子が悪くて止まってしまう。厚木から横浜まで二時間もかかるとは予想もしなかった。> < ホテル・ニューグランドの一帯はたちまち通行禁止とされた。玄関に着くと燕尾服に縞のズボン姿の老人が深々とお辞儀をした。マッカーサーは「おまえはこのホテルの支配人をどのくらいつとめておるのか」と訊ねた。七十五歳の野村洋三は「わたしは支配人ではなくオーナーです」と答え、幾度もお辞儀をくり返し、「ご案内する部屋がお気に召すとよろしいのですが」と小走りに廊下を先導した。案内されたスウィートは最高級のはずだが思ったより天井が低かった。> 河原匡喜のノンフィクション『マッカーサーが来た日』では次のように解説されています。 <連合軍の受け入れを決めたホテル・ニューグランドが、マッカーサーの居室として用意したのは315,316,317の三部屋が室内ドアで連続する一区画であった。建物の海側、三階の中央部分である。窓から山下公園越しに横浜港が一望できる。> この廊下の一番奥の部屋がマッカーサーの居室となった315,316,317号室です。 現在もMacArthur’s Suiteと名づけられ客室として使われています。 その手前の318号室は大佛次郎が使っていた部屋で「天狗の間」と名づけられています。 上の2枚の写真は以前宿泊した319号の窓から見える山下公園と氷川丸。 <部屋の調度品に特徴があるわけではない。ツインベッド、サイドテーブル、ソファー、大理石の事務机、姿見の鏡、そしてバス・トイレ、天井も低く、簡素というよりはむしろ貧弱な調度内容であった。案内されたマッカーサーは、それでも副官に「ベリ・グド」と言ったという。> 上のMacArthur’s Suiteの室内写真はホテル・ニューグランドのサイトからです。 昭和20年9月2日、横須賀沖に停泊する戦艦ミズーリでの降伏調印の日、マッカーサーは宿舎のホテル・ニューグランドを出て桟橋に向かいます。 ホテルの玄関前でリンカーン・ゼファーに乗ろうとしている写真です。 9月2日、調印式を終えて横浜に帰ったマッカーサーは3日間にわたるホテル・ニューグランドの居室を出て、市内旭代のシー・マイヤー氏邸に仮寓を移し、間もなく連合軍総司令部は東京に移ります。マッカーサーもその数日後に住まいをアメリカ大使館に移しました。 #
by seitar0
| 2025-11-03 22:42
| 横浜
|
Trackback
|
Comments(0)
連合国軍最高司令官のダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着したのは昭和20年8月30日の午後2時過ぎでした。 C54型機から出てきたマッカーサー元帥は、コーンパイプを口にくわえ、タラップの途中で立ち止まり、平静を装って余裕を示すように左右を見渡したシーンは有名です。 その後厚木から車列を組んで横浜に移り、横浜のホテル・ニューグランドを宿舎兼執務室として使用しました。 最初の総司令部を横浜に置くことは、日本政府の提案でしたが、横浜は徹底的に破壊されていました。 昭和20年9月5日に撮影された横浜・山手の丘から眺めた街の写真がありました。河原匡喜『マッカーサーが来た日』には当時の様子が詳しく描写されています。 <終戦の日、港の見える山手の高台から眺める横濱は一面の焼土であった。遠く長者町方向も、手前の元町、山下町、関内一帯も焼け尽くしていた。錆びた鉄骨を残す建物、黒ずんだ小型の焼けビル、電線を失い焦げて立ち尽くす電柱、瓦礫の山、所々に壕舎とバラック小屋はあっても、木造の建物は一切残っていなかった。元町と山下町の間を流れる堀川にかかる谷戸橋、前田橋、西之橋を通る道路が遮るもののない関内に白茶けて伸びていた。> <この中で、不思議なように生き残っている地域があった。右手前方、横浜港の海と山下公園の樹木の濃緑を背景に白く見えるホテルニューグランド、左手方向は海岸通りに沿ってかなりの数のビルが変わらに姿を留めていた。この一角だけは周囲に取り巻くもののない廃墟に、放置されたような建物が建っていた。> 写真の赤矢印のところがホテルニューグランドです。 この有様でしたから、連合軍総司令部の横浜進駐が決まってから、市内の整備作業はにわかにあわただしくなり、提供する建物の選定から、電力、電話、ガス、水道の復旧に大わらわだったようです。 終戦の日のホテルの状況も『マッカーサーが来た日』に述べられていました。 <八月十五日、本牧元町にいた社長野村洋三は、きがかりになっているホテルに出向いて愕然とした。一階正面の階段は子供の遊び場となり、二階ロビーは鍋、寝具、家具を持ち込んだ中国人家族がそこかしこに座り込み、、喧噪を極めていた。日本人も大食堂の一角に入りこんでいた。> 今では想像もできない有様です。 その日のうちに野村は、県、市、警察に連絡をとって被災者の救護を要請しています。 <ホテルの大清掃を、野村は残っている従業員と各地から戻ってきた従業員とともに行った。八月二十仁日、日本政府からマッカーサー以下連合軍幹部宿舎の要請を受けた時、速やかに対応できたのは、建物整備に早い決断をしていたからであった。ホテルは奇しくも再び廃墟からの出発の拠点となったのである。> なんとか表向きはマッカーサーを受け入れる体制を整えることができたようです。
#
by seitar0
| 2025-11-02 10:59
| 横浜
|
Trackback
|
Comments(0)
ダン・ブラウン『天使と悪魔』はヴァチカンを舞台にした物語。スイス衛兵が重要な役割を果たしています。 小説ではラングドン教授は、上の写真の世界で最も強力な粒子加速器が設置されているスイスのジュネーヴ郊外の欧州原子核研究機構(CERN)から、X33 宇宙航空機(実在)でローマのレオナルド・ダ・ヴィンチ空港に向かいます。 その時のヴィットリアとの会話で「スイス衛兵隊。神に宣誓したヴァチカン市国の衛兵ですよ」とスイス衛兵が話題になります。 レオナルド・ダ・ヴィンチ空港で落ち合ったラングドンとヴィトリアはヴァチカン市国のヘリコプターでヴァチカンに向かうことになります。 上の地図の黄線で囲ったところがヴァチカン市国のヘリポートです。 小説ではこのヘリコプターのパイロットがスイス衛兵の服を着て登場します。 <パイロットは、シェイクスピアの芝居用に紛争したようないでたちだった。ふくらんだ上衣には輝く青と金の縦縞がはいっている。ズボンとスパッツも同じ模様で、足にはスリッパに似た黒く平らな靴を履いている。頭にかぶっているのは、黒いフェルトのベレー帽だ。> 写真はサンピエトロ大聖堂に立つスイス衛兵。 <「伝統的なスイス衛兵の制服だよ。ミケランジェロ本人がデザインした」パイロットが近づくにつれ、ラングドンはたじろいだ。「わかっている。ミケランジェロの傑作のひとつとは言えないさ」> 本当はミケランジェロのデザインではなく、1914年にスイス衛兵の士官ジュール・ルポン(Jules Repond)により、1500年代ルネッサンス期当時のスイス衛兵の装いを元にデザインされたそうです。 こちらはスイス衛兵隊警備本部サンタンナ門の警備班が着用している地味な青色の勤務服 です。 <エリート集団であるスイス衛兵隊の一員になるためのきびしい要件については、何度も読んだことがある。スイス国内の四つのカトリック州から集められる。十九歳から三十歳までのスイス人男子で、身長百七十四センチ以上、スイスで兵役を経験したことがあり、独身者でなければならない。。この教皇護衛隊は、地球上で最も忠実で優秀な警護隊として、世界じゅうの政府の羨望の的となっている。> 小説に書かれている通りで。スイス衛兵になるには、身長174センチ以上、カトリック信徒など、いろいろの条件があり、厳しい検査を通過した人だけが選ばれるそうです。 #
by seitar0
| 2025-10-31 21:47
| 海外
|
Trackback
|
Comments(0)
久しぶりに宿泊したホテル・ニューグランド。大佛次郎、三島由紀夫、浅田次郎、渡辺淳一らの小説の舞台としても登場します。 山下公園を歩く俊と海です。 今回は本館には宿泊できませんでしたが、本館3階の318号室は大佛次郎ゆかりの部屋で、「天狗の間」と名付けられています。 大佛次郎は昭和6年から約10年間にわたり、ホテル・ニューグランドのこの部屋を創作活動の場とし、横浜を舞台にした『霧笛』をはじめ『鞍馬天狗』他、数々の名作を生み出しました。 大佛次郎のエッセイ集『横浜今昔』「"霧笛"を生んだ波止場情緒」では次のように述べています。 <仕事をするにもハマでないと気分がのらず、ホテル・ニューグランドの一室に閉じこもって大いに遊んだのもこのころだ。「三一八号室」——それがぼくの部屋だった。ホテルの三階にあってね。港が真正面に見えて展望はよくきくし、実に住み心地のよい場所だったよ。とくにボーイに気のきくのがいてね。仕事の時は参考の書籍をきちんとそろえて待っていてくれる。ノコノコ鎌倉の自宅からホテルに入るとすぐ筆がとれるといった具合でね。万事好都合さ。そこでこの部屋を仕事場と決めこんで、十年余り鎌倉とハマを行ったり来たりしていたもんですよ。> 3階の廊下左手にある318号室。 現在は「天狗の間」というプレートが付けられています。 <「霧笛」を書いたのもこの当時でね。波止場近くの山下公園には夕方いつも散歩がてら出たものだ。ハマ独得の潮風の香をかぎながら"ボーッ"と低く、重く流れる汽笛を聞いているとなんともいえないね。とくに夏の夕方などは素敵に感じて、じーっと船を見ていたときもありましたよ。海に臨んだ美しい緑の公園、それがあんなに家(米軍将校ハウス)が立っちまって、昔の面影がみじんも見当らなくなってまったくイヤだね。> 終戦後の昭和20年9月、山下公園は米軍によって接収され、園内全域に将校クラスの家族住宅が建設され、公園はフェンスで囲まれ、立ち入り禁止区域となっていました。 大佛次郎がこのエッセイを書いたのは昭和32年で、全面的な接収解除は昭和34年まで待たねばなりませんでした。 #
by seitar0
| 2025-10-27 20:21
| 横浜
|
Trackback
|
Comments(0)
| |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファン申請 |
||