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連合軍進駐早々の居住施設や総合指令部区域として横浜が選ばれたのは連合軍の指示によるものではなく、日本政府の提言によるものでした。昭和30年8月12日付け日本経済新聞に掲載された帝国ホテル社長犬丸徹三氏の手記からです。 <私はまず、マ元帥の宿舎を至急さがさねばならなかった。東京は避けようというのが一致した意見で、横浜に決まったが、神奈川県知事はこれをきらって横須賀を主張したりしたが、とにかくその晩のうちに、焼け残ったニューグランドホテルを抑えることができた。ホテルならマ元帥以下将官十五人は楽に収容できるからいいのだが、これでいかんといわれる場合を考え、民間の家屋を接収して一応準備する二段階構えの作戦でんぞんだ。> そのような経緯で、厚木飛行場に到着したマッカーサーは将校たちと日本側がかき集めた古いぼろ車の列に乗り込み、横浜に向かいます。マッカーサーが乗り込んだのは阿南陸軍大臣が使っていたリンカーンでした。 写真は戦後の焼け野原に残ったホテル・ニューグランド 猪瀬直樹の小説『ジミーの誕生日』では、史実に基づいて次のように描いています。 <旧式の赤い消防車はサイレンを鳴らしっぱなしで、そのうしろにマッカーサー一行の車列がつづいた。マッカーサーにはおんぼろのリンカーンがあてがわれた。それでも車列のなかでは群を抜いていた。あとは木炭車ばかりで、スピードが出ないだけでなくしばしばエンジンの調子が悪くて止まってしまう。厚木から横浜まで二時間もかかるとは予想もしなかった。> < ホテル・ニューグランドの一帯はたちまち通行禁止とされた。玄関に着くと燕尾服に縞のズボン姿の老人が深々とお辞儀をした。マッカーサーは「おまえはこのホテルの支配人をどのくらいつとめておるのか」と訊ねた。七十五歳の野村洋三は「わたしは支配人ではなくオーナーです」と答え、幾度もお辞儀をくり返し、「ご案内する部屋がお気に召すとよろしいのですが」と小走りに廊下を先導した。案内されたスウィートは最高級のはずだが思ったより天井が低かった。> 河原匡喜のノンフィクション『マッカーサーが来た日』では次のように解説されています。 <連合軍の受け入れを決めたホテル・ニューグランドが、マッカーサーの居室として用意したのは315,316,317の三部屋が室内ドアで連続する一区画であった。建物の海側、三階の中央部分である。窓から山下公園越しに横浜港が一望できる。> この廊下の一番奥の部屋がマッカーサーの居室となった315,316,317号室です。 現在もMacArthur’s Suiteと名づけられ客室として使われています。 その手前の318号室は大佛次郎が使っていた部屋で「天狗の間」と名づけられています。 上の2枚の写真は以前宿泊した319号の窓から見える山下公園と氷川丸。 <部屋の調度品に特徴があるわけではない。ツインベッド、サイドテーブル、ソファー、大理石の事務机、姿見の鏡、そしてバス・トイレ、天井も低く、簡素というよりはむしろ貧弱な調度内容であった。案内されたマッカーサーは、それでも副官に「ベリ・グド」と言ったという。> 上のMacArthur’s Suiteの室内写真はホテル・ニューグランドのサイトからです。 昭和20年9月2日、横須賀沖に停泊する戦艦ミズーリでの降伏調印の日、マッカーサーは宿舎のホテル・ニューグランドを出て桟橋に向かいます。 ホテルの玄関前でリンカーン・ゼファーに乗ろうとしている写真です。 9月2日、調印式を終えて横浜に帰ったマッカーサーは3日間にわたるホテル・ニューグランドの居室を出て、市内旭代のシー・マイヤー氏邸に仮寓を移し、間もなく連合軍総司令部は東京に移ります。マッカーサーもその数日後に住まいをアメリカ大使館に移しました。
by seitar0
| 2025-11-03 22:42
| 横浜
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