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大竹昭子さんは『須賀敦子のローマ』「聖天使城へ」でその姿を次のように述べています。 <はじめてそれを目にしたとき、バースデーケーキのようだと思った。円筒形の台座が鎮座していて、むき出しになった壁面に粗い石や細かい石の層が縞模様をなし、上にケーキのデコレーションのようなものがのっている。だが色はバースデーケーキとはほど遠い土色で、無骨で荒々しい印象があり、夕暮れどきの黒々したシルエットには、おどろおどおどろしい雰囲気すら感じられた。> サンタンジェロ城。日本語では聖天使城。パンテオンを造ったのとおなじハドリアヌス帝が自分自身と後世のローマ皇帝の霊廟として造らせたもので、プッチーニの歌劇「トスカ」の最終幕や、「ローマの休日」にも登場します。 須賀敦子さんは『ユルスナールの靴』「皇帝のあとを追って」で、聖天使城と呼ばれるハドリアヌス帝の墓廟を訪ねます。 <玄関の広間の右手の壁に開いた、小さな黒い長方形と思えたのは、一説にはハドリアヌスを葬ったとされる「骨室」につづく螺旋階段への入口だった。階段といっても、それはひどく緩慢な坂といったほうがふさわしい、緩い傾斜の登り道である。終着点の骨室がどのようなかたちで現れるのかは、厳粛な古代宗教の秘儀のように訪問者にはなにも明かされていない。> 須賀敦子さんは、断面図に示された螺旋状の通路をのぼって、中央部にあるハドリアヌス帝の骨室を目指します。 中央部の骨室に到着したようです。階段の先に観光客が並んでいました。 このような掲示がありました。 「私たちは古代ハドリアヌス廟の中心にいます。(A)ここにはハドリアヌス帝とカラカラ亭までの皇族の遺体が安置されている場所です。」 上の写真の、大理石に刻まれた文章を須賀さんは紹介されています。 <壁の大理石に刻まれていたのは、碑文というのではなく、ハドリアヌスが死の床でつくったといわれる、あの有名な詩の一節だった。 Animula vagula,blandula Hospes comesque corporis, Quae nunc adibis in loca Pallidula,rigida,nudula, Nec ut soles dabis iocos… たよりない、いとおしい、魂よ、 おまえをずっと泊めてやった肉体の伴侶よ、 いま立って行こうとするのか、 青ざめた、硬い、裸なあの場所へ もう、むかしみたいに戯れもせず……> 西暦134年頃、健康上の問題で活動が停滞したハドリアヌスはローマに戻り、アントニヌス・ピウスを後継者に迎え、テヴェレ川のほとりに彼の永眠の地となる巨大な円形霊廟の建設に着手しました。ハドリアヌスは4年後の西暦138年に亡くなりましたが、霊廟の建設は、新たに皇帝に即位したアントニヌス・ピウスによって西暦139年に完成しました。 完成当時の模型が展示されていました。 記念碑の基部は約640フィートの正方形で、大理石張りで、優美なコーニスと青銅の銘板を備えていました。角には騎馬像が並んでいた。その上には、今日まで残るトラバーチン製の大きな円塔がそびえ立っていました。当時は大理石で覆われ、一連の 16彫刻家の技巧の結晶ともいえる彫像の数々。古墳の周囲には、糸杉が風に揺れる空中の陸の島のような姿で守備に立っていました。そして、この空中庭園の中央には、四輪馬車に乗った太陽神の荘厳なブロンズ像がそびえ立っていたのです。
by seitar0
| 2025-09-29 11:30
| 須賀敦子
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