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遠藤周作のエッセイで『合わない洋服 何のために小説は書くか』には、伯母や母に導かれ、フランス人司祭による洗礼式で「はい、信じます」と答えたことにより、「合わない洋服」を着せられたと述べています。 <だがその後十年たって、私は初めて自分が伯母や母から着せられたこの洋服を意識した。洋服は私の体に一向に合っていなかった。ある部分はダブダブであり、ある部分はチンチクリンだった。そしてそれを知ってから、私はこの洋服をぬごうと幾度も思った。まずそれは何よりも洋服であり、私の体に合う和服ではないように考えられた。私の体とその洋服の間にはどうにもならぬ隙間があり、その隙間がある以上、自分のものとは考えられぬ気がしたからである。> この「合わない洋服」について、エッセイ『私とキリスト教』でもっと具体的に述べられています。 <私が自分の信仰の問題として苦しんだことの一つに日本人的な感覚と基督教との矛盾ということがあります。>とし、 それは日本人の感覚の中には神を必要としないものがひそんでいるからだと述べます。 <それは何故だろうと私は当時、この神を必要としない日本人の感覚に一種の恐怖を感じながら、しかしそれを自分の周囲やいや、私自身の中にさえ発見したのでした。基督教の歴史や伝統がないためだろうか。いや、それだけではないようでした。むしろこの神に対する無関心さはもっとも東洋的な汎神論から来ているようであり、日本人には長い間、ぬきがたいほど培われてきたものだと私には思えました。> 東洋的な諦めの世界については次のように説明しています。 <この東洋的な諦念の世界こそはおそらく日本人のだれもが心の中に郷愁としてもっているものですが、これこそ基督教とはもっとも相反したものなのです。それは神の代わりに大きな自然や、宇宙にそのまま吸い込まれていきたいという感覚です。> しかし、遠藤周作は基督教を棄てることはありませんでした。 <けれども、この矛盾や不安はかえって私の信仰に刺激を与えてくれました。と申しますのは、私は幾度も基督教を捨てようとしながら、結局、捨てられない自分を発見したからです。カトリックは日本人の私にぶつかり、それと闘いながら、しかし私から決して離れようとはしませんでした。> その姿はまさに『沈黙』のキチジローの姿に重なります。 『合わない洋服』の最後では、 <後になって私はもうぬごうと思うまいと決心した。私はこの洋服を自分に合わせる和服にしようと思ったのである。>と述べ、 『私の文学』でも、 <そう書けば恐らく大多数の日本の読者は私が一体どこまで基督教に信頼や確信をもっているのかを疑われるだろう。私ははっきり答える。私は基督の教えが他の諸思想より私には一番ふかい一番たかい真理だと考えている。基督の教えに対する信頼感は私の心の底に今日あるのだ。>と基督教への信頼を述べているのです。
by seitar0
| 2024-03-29 14:46
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