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千姫は徳川二代将軍秀忠の姫君に生まれ、政略によって豊臣秀頼に嫁しましたが、大坂城落城の際に救い出され、のちに本田忠政の子、忠刻に再嫁しました。元和三年(1617年)忠政が伊勢桑名から姫路十五万石の城主となったとき、忠刻も千姫の化粧料として十万石を与えられ、姫路に移り住みました。 忠刻と千姫の居館は、西の丸内に本館として中書丸を、桐の門内に下屋敷として武蔵御殿をそれぞれ築きます。 写真は西の丸御殿跡地から見た姫路城天守閣 その様子は玉岡かおる『姫君の賦』では次のように描かれています。 <さすが、姫さまが入ることを意識して、なかなかの造作のようじゃ」櫓と櫓の間は百閒廊下と言われるほどに長い廊下で結ばれており、その間にはたくさんの渡り櫓や長局、多門が建ち並び、それ自体が蜿々長蛇の城壁を成して巡らされる。むろん、それらたくさんの長局は、それぞれ本部屋と控えの部屋を持ち、廊下に向かって出入りするようになっていたが、千姫ほどに家臣を持っていれば、これだけたくさんの部屋があっても当然と言えた。> 千姫がこの櫓を休息所としたので、この櫓を化粧の間、または化粧櫓と呼んでいました。 西の丸の東側には、北端の化粧櫓から南西角部のワの櫓までいくつもの櫓が設置され、これらの各櫓は渡櫓と呼ばれる長屋で結ばれています。その構造が多門櫓と呼ばれています。 この渡櫓の内部には、化粧櫓からワの櫓まで長い廊下が続き、100間をこえる長さがあるために、「百間廊下」と呼ばれています。 渡櫓の北部分は、千姫をサポートする女中・下女の長屋として、8畳ほどの部屋が19室も連なり、ここで千姫の女中23人及び下女16人、娘の勝姫の女中3人が起居する局(長局)として使用されたそうです。 千姫は西の丸にあった中書丸(中書とは、忠刻の官職中務大輔)の唐名)と三の丸にあった武蔵野御殿の両方を使っていたようです(いずれも滅失して現存していません。)。 「姫路城を守る会」のサイトに掲載されていた「姫路城内郭内復元鳥瞰図」です。 赤い線で囲った所に中書丸。黄色の線で囲った所が武蔵野御殿です。 https://protect-himejicastle.com/cyokanzu/ <だが姫のためにはさらに、下屋敷が新築されることになっていた。西の丸のうちでも、姫がさらに自由にくつろげる二つ目の屋敷だ。同じく書院造りで、ここには伏見の一部が移されることになっていた。この時代の建造物は釘を用いぬだけに、立派な寺院などは解体して運送し、それを用いて建築することがよくあった。伏見城は姫が生まれた邸でもあり、柱や壁には随所に懐かしさも見いだせる、そんな気配りがうかがえた。> 武蔵野御殿と呼ばれるのは千姫が長年住み親しんだ武蔵野(江戸)の風情を表すために、その襖絵にすすきの画をあしらったから、と言われています。 『姫君の賦』では忠刻から襖をどんな絵で飾ろうかと尋ねられて、千姫が答えます。 <「薄の絵が、よろしゅうござります」「それはまた、枯れた景色であるな」姫の答えが忠刻には意外な気がした。ここには華やかに咲き誇る花や緑溢れる草や木や、空にはばたく鳥を描かせ、高貴な女主人が住むのにふさわしい高雅なる内装にしようと意気込んでいたのだ。そう、かの大坂城の淀殿の居間にも迫ろうという心意気で。「いいえ、殿。西の丸が京や大坂、上方の華やかさを楽しませてくれるなら、下屋敷は、江戸の枯れた武蔵野を思わせればじゅうぶんです」なんと謙虚な心ばえであろうか。姫のためにはどんな宝物でも飾ってやりたい忠刻だというのに。 「そうか。ならば姫の下屋敷は、さしずめ武蔵野御殿と名付けようか」> 天守閣から見おろす三の丸広場と大手前通り。赤矢印のあたりが武蔵野御殿があったところで、現在千姫牡丹園となっています。 千姫は姫路城で過ごした10年間が最も幸せな時期だったようです。
by seitar0
| 2022-10-16 11:52
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