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徳川秀忠の長女・千姫は慶長8年(1603年)、7歳にして豊臣秀頼と結婚。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出されます。そして元和2年(1616年)には桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚します。 更に、翌元和3年(1617年)、本多家が播磨姫路に移封になり、桑名を発って姫路城に移り、播磨姫君と呼ばれました。 橋本政次『千姫公考』を読むと、東海道・山陽道の陸路で姫路城に向かったのが史実のようですが、玉岡かおる『姫君の賦 千姫流流』では大阪から海路で姫路に向かった様子が描かれています。 <元和三(一六一七)年八月、本多忠政、忠刻(ただとき)は揃って大坂に入り、国入りのための仕度を調えた。なにしろ大坂は国内のあらゆる物資が集まるばかりか、京に近く、洗練の技を駆使した名品の数々を発注できる。千姫を迎えて以降、雅な文化への意識の高まる本多家では、この祭、どの品も財を惜しまず調達し、海路、大阪湾を西へ出発することになった。まず忠政、忠刻が先発し、それぞれ北の方、お熊(ゆう)の方と千姫が入城したのは五日遅れてのことである。> なかなか説得力のある海路説です。 <あの山なみは、何という」右舷に続く陸の景色に眺め入りながら忠刻は訊いた。船は先頭に在り、父忠政が乗る旗艦船を先導するかのように、風を切って前を進んでいる。 あれが武庫の山なみにございます。こうして浪華津から見ればまさに“むこう”。うまく言ったののでございまするな」浪華津から忠刻の船に同乗し、播磨への案内役となったのは宮本武蔵である。播磨を生国とする彼には土地勘があることから、何を訊いても答えは明快に返る。> 「武庫の山」語源は諸説ありますが、これもその一つ。 その説明と案内役に、まさか宮本武蔵が登場するとは思いませんでした。 しかし、二刀流を編み出した宮本武蔵は、元和の初め頃、姫路の城下にやってきて、武芸を好んだ本多忠刻が客分として招いたと伝えられています。 江戸時代に刊行された『摂津名所図会』に「尼崎より須磨の浦まで幽遠の風景」と書かれた図があり、これが浪華津(大阪湾)から見た風景です。 <そっと後ろの船を振り返る。「あれが甲山。商人たちも目印にする山だそうでございます」静かに武蔵がさし示す。さほど高くはないが、山なみの手前にぽっこりと、まさに兜を伏せたような形の山があった。「なるほど、甲山があるから、むこうの山なみを六甲山と言うわけか」教えられる一つ一つの地形や地名が忠刻には目新しかった。> 同じく『摂津名所図会』の「西宮御前浜澳の桜鯛釣りの図」です。中央に描かれている円い山が甲山でしょう。 西宮御前澳(おき)の桜鯛は 蛭子(えびす)三郎殿初めたまひしより世に賞す これ我が国の名産にして唐(もろこし)に鯛ある事いまだ聞かず 惣じて諸魚ともに網にて漁したるは次ぎにして 釣りかかりたる魚は至って美味なりと人のかたりき と記されており、江戸時代は明石鯛より、西宮の香櫨園浜の鯛の方が有名だったようです。 忠刻の船は進み、「そしてあれが鷹取、鉢伏山。そこを越えれば播磨でござります」と武蔵が案内します。 <「このあたりは摂津の隅、そこから転じて、須磨と言うんだそうでございます」鷹取山が海に突き出し摂津を囲ったように見えるから、たしかにそこが隅。スミが、須磨か。昔の人はこれまたうまく言ったものだと、説明されるすべてに異論はなかった。そして須磨と聞いて忠刻の頭に思い起されてくるのは源平の合戦だった。名高い一ノ谷の合戦である。> こちらが『摂津名所図会』の「須磨の浦」の図です。一ノ谷も描かれています。 さすが加古川にお住いの玉岡かおるさんの大阪湾から姫路に向かう海路の壺を心得た風景解説。登場人物も豪華でした。
by seitar0
| 2022-10-09 18:20
| 玉岡かおる
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