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遠藤周作は大正15年、3歳で父の転勤で満州・大連に移り、昭和8年、小学4年の時に母に連れられて帰国するまで大連で暮らしていました。大連での生活は、しばしばエッセイや小説に描かれています。 私も大連は二度、仕事で訪ねたことがあります。 町田市民文学館で開催された「遠藤周作とPaul Endo 母なるものへの旅」の図録を見ていますと、大広場(現;中山広場)周辺の遠藤周作ゆかりの地を示した地図がありました。 ![]() 昔訪ねた大連を思い出しながら、『クワッ、クワッ先生 行状記』を読んでみました。 <大連といっても大半の読者には無縁な街だから興味はないかもしれない。しかし東北出身の者が東京にあっても、岩手や青森のニュースに敏感なように大連出身者はだれでもあのアカシヤの花咲く大連を懐かしがる。> ![]() <大連埠頭には思い出がある。日本から親類が来るたびに何度も両親に連れられて埠頭に迎えに来たからだ。その頃、この埠頭には裸足の中国人苦力が雨に濡れて大きな豆粕の袋や石炭袋をかつぎ働かされていた。子供心にも彼等の表情のない無気力な顔がいたいたしかったが、今、見る埠頭には少なくともそのような苦力も誇りのない顔もない。> 最初の地図の①が大連埠頭。遠藤周作は帰国の時もこの埠頭から出航しました。 ![]() 現在の大連港です。 <埠頭から車は文字通りアッという間に大広場(現・中山広場)に入った。大広場と言っても大連に住んだ事のない人は何も感じまいが、しかし昔、この街に生活した人間は大広場と聞いただけでさまざまな思い出をよみがえらせる筈である。それは大連の中心でそこから放射線状にのびる幾つもの大通りがあり、広場をかこんで赤いドームや青い線のドームの外国風の建物がならび、広場は公園のように芝生と樹木が植えられていたのだ。> ![]() そして、日本統治時代に大広場と改名され、現在は中山広場と呼ばれています。 <私の父はこの広場に面した銀行に勤めていた。私の小学校も大広場小学校という名の通り、ここからすぐ近かった。だから私は毎日、この広場を通り抜けて通学した。子供心にもこんな綺麗な広場はあるまいと考えてた広場である。> 遠藤周作の父、常久は第三国立銀行(後安田銀行)、横浜正金銀行に勤めており、父の転勤により大連に移ったのです。 ![]() 設計:妻木頼黄 竣工:1909年12月(最初の地図の②) 遠藤周作が通った大広場小学校は、大広場から少し入った位置にあり、1908年に新築された大連の最初の小学校で、設計は小野木孝治。現在は「大連市第十六中学」となり新しい建物となってますが、昔の校舎が倉庫となって残っているそうです。 (最初の地図の④) <大和ホテルは子供の頃、私にとって灰かつぎの少女はじめて知った王子さまの宮殿のようなものだった。夏になると私は親にせがみ、よくこのホテルの屋上に遊びに連れていってもらった。そこには谷をぬい、鉄橋をわたる電気機関車の模型が走り、私はもうそこから離れられなかったものである。両親は仲よくビヤ・ガーデンでビールを飲み、満艦飾の提灯に灯がともり、その頃私は大変幸福だった。> ![]() このホテルは大連賓館として残っていて、私もレストランで食事をしましたが、残念ながら2018年4月末で営業を終了したそうです。 遠藤周作一家は最初の地図の⑦、霧島町に住んでいたそうです。グーグルアースのストリートビューで見ようと試みましたが、中国の街角の撮影は許されていないのか、見ることができませんでした。航空写真ではそのあたりアパート群となっており、当時の面影は残っていないでしょう。 ![]() (黄線のあたり) しかし、遠藤周作が大連を再訪したときには、その家がまだ残っていたようです。 <この塀のつきた二軒さきに私の家がある。間違いなかった。四十年の間、思い出し、反芻し、庭も形も間取りも甦らせ甦らせてきた家が今、私の眼の前にあった。(来ました……)と私は亡母に言った。亡兄に言った。門も門の前のアカシヤの木もそのまま残っていた。アカシヤの木は四十年の間、私が老いたように老いていた。> 遠藤周作が訪ねたのは昭和48年ごろと思われますが、家が残っていてよかった。
by seitar0
| 2021-12-29 15:03
| 遠藤周作
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