昭和20年戦禍は益々酷くなり、食糧難が続きます。『はやすぎた夏』からです。
<七月半ばになると、食料の遅配がめだって、小母さんは露骨に世話をいやがり、礼子にも、「なんせ体の具合わるいいうことで、工場休んでるねんから、あんたら、あんまり出歩いたらぐつわるいで」と足留めくわせ、だが礼子は気にもせず、抜け出し、それはあるいは、夙川に戦前からある喫茶店の一軒が、人口甘味ながら寒天を売っていて、俊夫は銀行で金をおろし、一個三円のそれも造作なく買ったし、一緒に歩けば、菜園荒らしのお裾分けにあずかれるせいかも知れぬ。>
神戸女学院生だった礼子は、川西航空機の宝塚工場に動員がかっていましたが、体調のせいで休んでいました。

当時川西航空機では自ら開発した戦闘機紫電改の製造におおわらわで、神戸女学院、関西学院、小林聖心女子学院の学生まで動員されており、須賀敦子さんも翼になるジュラルミンの板を学校工場で曲げていたそうですし、遠藤周作『黄色い人』にも当時の情景が描かれています。
俊夫と礼子が、毎日満池谷から香櫨園の回生病院に通う途中に立ち寄っていたのが、夙川のパボーニでした。

野坂昭如はこの思い出のパボーニを戦後何度も訪れていました。


大石夫人と人口甘味の寒天の話もされていたようです。

千歳町の跡地に行くと、今も空き地のままで寂しそうに棕櫚が二本残されています。
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