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大阪大空襲で田辺写真館を失った田辺家は、戦後二世帯に分かれ、お父さんは大阪の福島の家で、お母さんと聖子さんたち四人は武庫川の家で暮らし、お父さんは写真屋を再開するつもりでした。しかし、病気になった父親は昭和20年12月23日に亡くなります。 ![]()
更に翌日、9月11日の日記では、お父さんの病状が悪化したことが書かれ、<何と弱いお父さん、不甲>斐ない。商売も出来ぬではないか。私も学校を退学せねばならないかもしれない。私も働かねばならぬ。いまこそ、マリー・キュリーを目指して働きつつ学ぼう、映画も食事ふりむかず、美衣をきず、ただ一心に勉強しよう。苦学もいとわない。お母さんは、聡ちゃんだけでも学校出してやりたいと泣きながら言った、私も働くのだ。>と、苦境の中、自らを励ますような文章になっています。 11月1日の日記では、父親の病気の悪化で気がふさがり、何をしてもつまらないとしつつ、母への感謝が溢れます。 <いつの場合にも父は頼もしげなく、誤っていたが、いつの場合にも母は正しく逞しかった。母の偉大さは私は充分見知った。どうにかして、えらくなって、母を安心させてあげたい。私の一生の半分を母に捧げようとも思う。> ![]() 父親が亡くなった翌年、母親は、梅田で果物店を出している台湾人の店にご飯炊きに月給二百円で働きに出ますが、朝は六時に出て九時ごろ帰るという生活でした。 そして、昭和21年12月31日には、小説の道しかないと、決意表明のように大晦日の日記を締めくくっています。 <来年も、勉強して小説を書こう。私はもう、この道しか、進むべき道はない。そう、信じている。> また楽天少女らしく、苦労をものともせず、「さらば十九の幸多かりし年よ」と述べ、<さあ、もう寝よう。神さま、明年もしあわせを下さいませ。おやすみなさい。>と昭和21年の日記を終えます。 ![]()
![]() 本格的な作家活動に入ったのは、ようやく昭和31年になって、『虹』で大阪市民文芸賞を受賞してからのことでした。 一家を支えていたお母さんは、戦後間もなく西宮市水道局に入り、定年まで勤められました。 その母親の様子が『虹』に描かれています。 <わたしと母は、水道集金人の母の給料で、今のところどうにか食べつないでいるが、二間のボロ家にせよ、一軒かまえるとなると、家賃、電灯、ガス、水道、とのっぴきならぬ出費が厳然とたちはだかって、乏しい母ひとりの稼ぎでは追いつかなかった。> そして、田辺さん当時の母親の姿を次のように描いています。 <働けるといったって、母の体はいまでもガタピシゆるんでいた。神経痛がおこり、すぐ肩が凝る。昔は瘦せすぎながら、疲れを知らず頑健だったのに。母は骨の突き出しそうなこの痩せた体で、山坂の道を上り下りし、あえぎながら水道料を集金してまわるのだ。油照りの夏も犬に咬みつかれ、どなられたりしながら、冬は六甲おろしの、容赦ない北風に吹き巻かれて、西宮の山地をめぐる。水道ヤのオバハンと呼ばれ、お仕着せの黒っぽい上衣を着せられた背を丸め、おむつ入れのように不格好な黒鞄を重げに腕にかけ、木綿の靴下をはいて、考え沈みながら歩いている母の姿を、わたしは思いえがく。> 小説では母親は大阪の商家のご寮人さんだったと書かれています。 <鶏の足のように細いスネで、たよたよと一日に何里もあるくのだ。家が戦災にあう前、夫に死なれる前までは「ご寮人さん」と呼ばれた母が、おちぶれた、おちぶれたと嘆きながらしかし、母には卑屈さがない。懐炉をいれる別珍の袋に楽しげに刺繍をし、背中へ負って、凍る霜のみちを毎朝はやく出かけていくのあった。母は運命に無抵抗でいながら柔軟で折れなかった。> 「母は強し」です。楽天少女、田辺聖子さんの明るさも、母ゆずりだったのかもしれません。
by seitar0
| 2021-07-11 13:54
| 田辺聖子
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