洋画家で具体美術協会を主宰し、吉原製油社長でもあった吉原治良の「わが心の自叙伝」からです。
<学校は関西学院の高等商業部へ入った。当時は上筒井にあって赤レンガの美しい建築がいっぱいあった。相変わらず一生懸命に絵をかいていた。>
<そのころ、北野中学以来の友人吉田博一の紹介で艸園会という絵の会へ入会した、すでに多少名前の出た若い画家たちの集団であった。辻愛造、伊藤慶之助、小西謙三、赤松進(赤松麟作先生の二男)田川勤次、大石輝一など十人ぐらいの顔ぶれである。私は三年ぐらいでやめたが、そのあとでも伊藤継郎、前田藤四郎などの諸君が入ったり、なかなか今から考えるといい会だった。大石輝一は、そのころから美術館を建てるといって西宮の奥の方で土地の安いところをさがしていた。近年ゴッホの碑を建てたりいろいろやっているが、四十年経て彼の執念が実ったようなもので全く頭が下がる。>

上の写真は大石輝一が三田アートガーデンに建てたゴッホの碑の現在の姿です。

艸園会創生時のメンバーの写真をパボーニで見つけました。
吉原治良は前列左端、大石輝一は後列左から二番目とわかるのですが、それ以外の人物がわかりません。

艸園帖と題された画帖を開きますと、発足当時の艸園会同人の氏名、そしてそれぞれ描きあった似顔絵がありました。

この似顔絵と写真を見比べながら、名前を推測するのは楽しい作業でした。

この画帖には吉原治良の描いた珍しい西宮砲台の絵がありました。

大石輝一も海から見える西宮砲台を描いていました。
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