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阪神電気鉄道の外山脩造社長に、明治32年に技師長として迎え入れられた三崎省三は、将来の発展を見据えて、当初の大阪神戸間電気鉄道の設計を広軌鉄道とすることなど、根本的に変更することを主張します。その結果、資金手当や、私設鉄道条例適用への政治工作などの紆余曲折を経て、ようやく明治38年4月12日に開業を迎えます。 三崎省三の評伝、舞坂悦治『甲子の歳』からです。 <本社での開通祝賀会のあいさつに立った外山社長の眼に、小さな小さな水滴が一つ、まつ毛の先端で、落ちそうになって、光っている。これこそ外山社長が全身全霊を注ぎ、敢然として、大都市間交通に挑み、遂に所期の目的を達成し得た、感激の涙の結晶であった。これによって日本の郊外電鉄は、欧米に劣らぬ面目を、保つことができるようになった。> ![]() <さて、大勢の見物衆の歓呼と拍手に送られて、大阪出入橋を辷り出した処女電車はアメリカ生まれのボギー車であった。ボディは美しく花で飾られ、郊外電車としては日本一速いスピードで、摂津平野をまっしぐらに、西へ向かって走って行く。春風は、その面を払い、鳥は、その後を追う。村に入ると、花火が打ち上げられ、子どもたちは、小旗を振って、これを送迎した。> 阪神電鉄は、明治41年には大阪府立医学校の佐多愛彦校長に相談し、医師たちの執筆により『市外居住のすゝめ』を発行し、大正3年には月刊誌『郊外生活』創刊するなど、郊外生活を推奨し、沿線住宅開発を進めます。 ![]() その中で、明治42年1月には西宮停留場空地に木造住宅建造し賃貸経営を始め、同年、12月にも、鳴尾に5,500坪余の土地を買い求め、賃家を建築します。その戸数はそれぞれ、西宮貸家 15棟 鳴尾貸家 50棟 御影用地 19棟でした。 ![]() ここに枚方から引っ越してきたのが森繁久彌一家でした。 森繁久彌『もう一度逢いたい』からです。 <大正二年生まれの私は、同六、七年頃に大阪郊外の枚方から武庫川、鳴尾の西畑へ越して来て、この松林に囲まれた幼稚園に入園したのだ。> ![]() <私はよく母に尋ねた。「どうして、ここへ来たの?」「空気がいいからです」母はそれしか言わなかった。西畑は一種の文化村で、文士や大阪、神戸の裁判官ら文化人が多数住んでいた。> この一角が鳴尾文化村と呼ばれたところですが、そのように呼ばれたのはいつ頃からでしょう。 鳴尾村史の年表を見ると、明治43年9月に <阪神電鉄が西畑に70戸の文化住宅を建設する(通称「文化村」)> と記されていますが、おそらく当時建設された住宅はいわゆる文化住宅ではなかったと思われます。 「文化村」の呼称の発祥は、大正11年(1922)東京府主催「平和記念東京博覧会」の会場の中に設けられた実物住宅展示場のことです。 ![]()
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このような歴史を考えると、「鳴尾文化村」は建築様式ではなく、森繁久彌が述べているように、周辺とは少し雰囲気が違い、文化人が集まって、「郊外生活」を楽しむ住宅地として、大正末期から呼ばれるようになったのではないでしょうか。
by seitar0
| 2021-04-15 15:17
| 甲子園
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