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西宮市史第一巻で、神功紀や日本書紀に散見される務古水門(むこのみなと)の位置が弥生時代に形成された津門の入り海をさすものと推定し、その推定復元図を掲載しています。 ![]() 西宮市史によると、「つぬの松原」は津門から瓦木にわたってあった松林と推定され、和歌にも詠まれています。 万葉集巻三に「吾妹子に猪名野は見せつ名次山角(つぬ)の松原いつか示さむ」 万葉集巻十七「海未通女(あまおとめ)漁り焚く火のおぼほしく都努(つぬ)の松原思ほゆるかも」 ![]() 津門神社を訪ねると由緒が掲示されていました。 ![]() 由 緒 津門神社の発祥は六甲山脈を背に務古の里にあり。務古の里は古来、自然の良港で津登、津奴、津門との名称がある。大昔は京都方面より山陽四国地方へ渡る人、上方へ上る人で舟の出入りも繁しく津の国唯一の良港であった。港の東南に津奴の塩浜があり、北には津登。東には津門の里があり、岡一体に老松が繁茂し務古又は津登の松原として万葉の古歌にもある通り有名である。古跡として今も残されて居る稜羽、呉羽姫が百済の国より渡来、我が国に始めて機織又は染物などを教えた地にて、彼等が外来渡来の神(大目如来)を歓請し創立したと云われている。 やはり、ここに「つぬの松原」があったようです。 ![]() 更に、梁塵秘抄巻二には「広田より戸田へ渡る船もがな浜のみたけへ言付もせむ」(戸田は中世の西宮の庄名)とあり、弥生時代から平安時代にかけて図のような入り海があったと推定されています。 どうもこの復元図は郷土史家の田岡香逸氏の手によるもののようです。 その著書、『西宮地名抗考 ―地名から見た西宮の歴史―』の「越水」の項では、 時代によって、地形は千変万化しており、歴史を研究する場合、その時代時代の地形をまず明らかにし、その上に立ってやらなければ、その成果は砂上の楼閣になるとし、古地理の復元が最大の重要条件であると述べています。 そして入り海の存在については、 <少なくとも弥生時代には、上ヶ原丘陵から南方へ延びた武庫川右岸の沖積地が陸化し、その西南端が津門に達していたということが、この地から出土した銅鐸によって知られ、中期の前方後円墳が二基もあったことが、これを立証して余りあるであろう。一方では、森具背後の洪積層台地の鼻が東南に向かって延び、その突端から東方に細長い砂嘴を造り、津門の突端と相対していたことが地層や遺物の分布によって確認されている。つまり、これらの陸地によって抱えられた入り海が、越水と本町通の間に形成していたと考えなければならないのである。>と説明しています。 更に <平安末期においてさえ、東方の広田から西宮へ行くには、船が必要であったという梁塵秘抄の歌を俟つまでもなく、入り海の跡と推定される地域では、地表下二メートルも掘ると、葭の根や貝殻が至るところから出土し、入り海の名残であった潟湖の時代が久しく続いたことを示している。> と述べ、 <ことに、近年における宮水保護調査会の水質調査も、この地域の地下水のクロール含有量が目立って多く、わたくしの古地理の復元の妥当性を立証した。> とされています。 ![]() この水質調査の結果を、西宮市自然保護協会編『西宮の自然』を読んでいて偶然みつけることができました。 宮水の流れの調査にために測定された水比抵抗等値線図です。 ![]() その図が、田岡氏が推定した津門の入り海の図とよく一致していたのです。 私もこの水比抵抗等値線図を見て、ようやく納得することができました。
by seitar0
| 2021-02-13 21:17
| 満池谷
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