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庄野潤三は『早春』で、叔父からの情報から、シムが日本で初めて十八番の家でラムネを製造したと述べていましたが、ラムネの歴史を調べると、諸説ありますが、違っていたようです。 ![]() 洋食店の中でびんの栓を抜いたところ、ラムネが噴出してびっくりしている様子の絵も掲載されていました。 また野村鉄男『ラムネLamuneらむね』には藤瀬半兵衛が本格的にラムネの製造販売を始めたのは、明治18年に東京に移り、芝に「涼水社」という店を開いてからとし、明治元(1868)年、横浜居留地でノース&レー商会が工場を建て、ラムネやジンジャーエール、シャンペンサイダーなどの製造販売を行ったのが始まりという説も載せていました。 更にA.C.Simについて調べると、Darren Swanson氏が“Treaty Port Society and the Club in Meiji Japan:Clubbism, Athleticism and the Public Sphere”と題した論文をインターネットで公開されており、その中のSim and Ramune という章で、シムとラムネの関係について詳しく説明されていました。 やはり英語を母国語とする人にとって日本人が発声するラムネは、lemonadeがなまったと言われているものの、LamuneではなくRamuneでした。 この論文によると、 当時、神戸の居留地では清浄な飲料水を手に入れにくく、シムは18番のMedical Hallで人気のあったレモネードと炭酸水の製造販売を宣伝します。 ![]() 現在の旧居留地18番 そして、炭酸水は多くの病を防ぎ元気を回復する健康飲料と広く信じられていました。 それまで、日本の他の店ではその味を一定に保つことがほとんどできなかったのですが、シムの店はそれができる唯一の店でした。そして優れたレモネードの味を開発し、大量に工場レベルの生産をし、居留地外の日本人たちと提携し、周りの地域への流通網を築き、販売したのです。 レモネードが日本化したラムネは既によく知れ渡っていて、決して新しいものではありませんでした。ペリーの使節はしばしば砲艦外交(gunboat diplomacy)と言われますが、ソフトな一面も示し、蒸気外輪フリゲート艦ポーハタン号での晩餐会で日本の外交官たちに炭酸飲料を紹介しました(soft drink diplomacy)。それが日本でラムネが広がる端緒となったのでしょう。 ![]() 開港を急いだことにより、インフラストラクチャ―が整わず、居留地に伝染病をもたらしました。人間の排せつ物を集めた下肥は何世紀もの間、米作りに使われてきましたが、開港後は下肥の引き取りは10倍にも増え、生態系のバランスが崩れたことにより各種伝染病が増えるようになります。 Japan Weekly Mail 1886によると1877年にアモイを経由して長崎に入ったコレラは、あっという間に九州から日本国中に広がりました。神戸での爆発感染は1877年から1886年まで続き、感染者の80%が亡くなったと言われています。 ![]() 1879年のコレラ大流行直後の虎列刺退治の錦絵。虎列刺(コレラ)に炭酸水をかけています。 シムのレモネードはラムネとして知られ、他のブランドの3倍の値段で販売されました。そんな高値でも売れた理由の一つが、今も知られるガラス玉のストッパーが入ったラムネ瓶を使用したことにあります。 ![]()
![]() またシムの18番のMedical Hallで製造され、健康増進に役立つことが日本の新聞に掲載され、消費者に宣伝されたことも後押ししました。 ![]() しかし、シムは利他的な人物であり、その利益を元に、神戸クラブに相応しい人物として、スポーツの才能だけでなく、造船技術、サルベージ技師などの才能を生かして社会貢献します。 1900年友人と大阪に行ったとき、生のカキを食べ、腸チフスに感染し、数週間後亡くなります。Kobe Weekly Chronicleにはその葬儀が居留地ではかつて、そして以後も見られることのないものだったと述べられています。神戸の日本人も通りに並び、シムの棺が通ったときには皆悲しみに暮れたそうです。 ![]() 今回、東遊園地のシムの顕彰碑から、色々調べてみると、シムの消防隊長としての活躍、災害発生時の被災地支援など社会貢献活動も素晴らしく、決して忘れてはならない偉人だという感を深くしました。
by seitar0
| 2021-02-11 12:55
| 神戸
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Comments(2)
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
質問事項書いていただければ、ご回答いたします。あまりお力になれないかもしれませんが、よろしくお願いします。
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