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阪急電車を尊敬し、宝塚少女歌劇の大ファンであった阪田寛夫は『わが町』の「宝塚」の章で、仁川の林間学舎で暮らしたときのことを述べています。 ![]() <幸か不幸か、私たちの小学校は、宝塚から四つ目の仁川駅の近くに林間学舎を持っていた。昭和十年前後のことである。仁川の町は、川の両側に三ブロックくらいづつ区画された閑静な住宅街だった。まだ家が建たず、石垣や石段だけを築いた空地が多く、赤松の林との境目がはっきりしない。この赤松林こそは、私たちのカブト虫の狩場であり、絶好の謀議の場所であった。> 阪田寛夫は昭和11年、小学校5年の夏休みに、入学試験の補修授業で十日間仁川で暮らし、その時、レビュー見物に宝塚に行けるよう先生に訴えようと生徒の間で謀議をめぐらしていたのです。 ![]() 現在の仁川ですが、昭和14年には遠藤周作も仁川の月見ヶ丘に住んでおり、松林や赤い屋根の洋館について述べており、赤松林まで住宅地に変えてしまったのは、残念です。 阪田寛夫が述べている仁川の林間学舎とは、帝塚山学院の「仁川コロニー」のことで、その歴史について庄野潤三が『早春』で詳しく述べています。 ![]() 庄野潤三の父で、帝塚山学院の初代院長の庄野貞一は、欧米の教育視察でベルリン郊外のシャーロッテンブルグの森の学校での教育に感銘を受け、帰国後仁川に林間学舎を開設したのです。 <それは父が外遊から帰国して四年目の昭和六年八月に甲山の麓の仁川に開設され、第二次世界大戦のために閉鎖しないわけにゆかない状態になるまでの約十二年間、在校生ばかりでなく父兄、卒業生のまでひろく親しまれた帝塚山学院の林間学舎である。これをコロニー(植民地)と名付けたのは私の父だが、その意味とは別に明るく快い語感、やわらかな響き、いい易さとでたちまちみんなは新しい名前に馴染んだ。> 設立には甲東園を開発した芝川又右衛門氏が深く関与しており、仁川にあった経営不振の銀星学院というカトリックの小学校を芝川氏の援助で買収して、仁川コロニーとしたそうです。 仁川コロニーは芝川家の別荘と、「甲東園」といわれる芝川家の果樹園の近くにありました。 ![]() <甲東園の次の仁川で電車をおり、滅多に水が流れているのを見たことのない、河原だけのような川に沿って少し上流へ行ったあたりで橋を渡り、住宅の間を左へ折れ、坂をおりきったところに「仁川コロニー」の門がある。まわりは赤松の林で、少し足を伸ばせば水遊びの出来る仁川がある。丘の方へゆるやかな坂道を上って行くと、赤い瓦屋根にクリーム色の関西学院の校舎が見えてくる。その後ろに甲山がどっしりと控えている。> これを読むと、仁川コロニーは仁川と甲東園梅林の間くらいのところにあったようです。 ![]()
by seitar0
| 2020-11-30 09:44
| 宝塚
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