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「小説鶴田浩二」と副題がつけられていた野坂昭如『一片のメロドラマ』から、続けます。 鶴田浩二の母、きみゑは明治42年生まれですが、明治の西宮について野坂昭如は次のように説明します。 <西宮に市制は、まだ敷かれてていない。もともとは宿場町、灘五郷の一つ、宮水を使う名酒の産地として知られるとはいえ、狐、狸を当たり前にみうける草深い土地。明治七年、大阪神戸間に鉄道が開通、同三十八年、阪神電車が二つの都市を結び、武庫川近くに鳴尾競馬所、夙川の西に、香櫨園遊園地が作られて、どうにか住宅居として、歩み始めたものの、きみゑ一家の周辺に変化はない。> まだ阪神電車は走っておらず、地図の左右に直線状に走る線が現在のJR線です。縦に走るのが夙川。 きみゑの家は夙川近くにあり、西国街道沿いの宿場町の場末の北側に立つ長屋でした。 <さらにいささか体力は回復しても視力のもどらぬ身を、男に立ち混り、地曳き網の、綱を巻き上げるロクロまわしとして働き、バケツに何ばいかの鰯を稼いだ。鰯はすぐ、売り歩く。だがこれも長続きしない、「イワシコイ、テテ噛ムイワシ、イワシコイ」は、昭和十年代前半まで続いた売り子の呼び声だが、これにはそれなりの株があり、新人は許されなかったのだ。> この鰯売りは、谷崎潤一郎『猫と庄造と二人のをんな』にも登場しますし、少女時代に西宮に住まれていた偉大な作詞家・岩谷時子さんも、大正から昭和の初めに西宮に住んでおられ『愛と哀しみのルフラン』で、鰯売りについて述べられています。 <物心つくころから成人するまで、私は海に近いところに住んでいた。鰯のとれる季節になると、鰯売りが、「とれとれの鰯やァ…」と、大声を張り上げ、天秤棒をゆすりながら、とれたての鰯を売りにきたものである。鱗のキラキラした小ぶりの鰯で、きざんだ土生姜を入れて煮たり、鰯が大きいと湯豆腐にしたりしたが、たまには小鯵ばかりがとれる日もあって、これがまた、美味しかった。買ったばかりの小鯵を白焼きにして、甘酢を入れた丼に漬け、数時間おいて食べるのだが、子供心にも、この魚を香ばしいと思ったのを覚えている。> 『一片のメロドラマ』に戻りましょう。 大正4年、きみゑが小学校に入学通い始めた年の夏、父が脳溢血で倒れ、幼いきみゑも鰯を乾燥する作業の手伝いをはじめるのです。 <朝、獲れた魚は、イキのいいだけが取り柄、国道より上まで担って売ることはできないといわれていた。残りは、鰯の形によるが、乾して、悪いものは肥料、かますに詰めて俵二十何銭で売り、ふさわしいものは、下等のダシとして、貫十何銭でさばく。> 戦後も続いていた鰯の天日干し作業です。 <乾燥させるためには、一尾一尾、浜に並べた筵の上に並べなめればならず、雨ともなれば取り込む。強い悪臭、そして冬さえも蠅がまといつく。この作業に従事する者は、二時間もすれば、臭いをしたって群れる蠅の、顔といわず手といわすたかるのが、気にならなくなった。六歳の秋からきみゑは働き、気がつくと、仲間はすべて長屋の住人、それはもう老若こきまぜてすべて女、夏は女半身裸、仕事を終えれば冬であろうと、海に入って身を清める、この「いりこ人夫」は、銭湯に入ることが許されなかったのだ。> <近道は、白砂青松の浜伝いに夙川を目指し、今も在る西宮砲台、勝海舟が、瀬戸内海の備えとして進言し、造られた奇天烈な構造物を右に折れるルート> きみゑはずっとそこで「いりこ作業」を続けていましたが、美しく成長し15歳になったときに、鶴田浩二を身籠ることになるのです。
by seitar0
| 2020-11-29 16:01
| 野坂昭如
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