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ルドルフ・ヴォルフガング・ミュラーさんの『二つの文化の狭間に生きて あるドイツ少年の回顧録』によると、昭和11年から13年にかけて、阪急岡本駅の近くの洋館に住んでいました。 そこでの暮らしやすさ、懐かしさを語るために、著書の中に谷崎潤一郎の『細雪』を引用しています。谷崎潤一郎は同じ時期、神戸市東灘区にある「倚松庵」に住んでおり、隣にはドイツ人家族が住んでいました。 ![]()
これは谷崎が「倚松庵」に住んでいた時の感想をそのまま、小説の中で述べたもので、ミュラーさんも同様に思われていて、引用したのでしょう。 ミュラーさんが岡本で住んでいた洋館については、次のように述べられています。 <ふたつの世界のひとつは、両親と一緒だった、小さな2階建ての家です。神戸の東、六甲山の麓の岡本町にありました。ヨーロッパ風の建物で、その家の見取り図や調度品などは生き生きとした像で残っています。一階には居間と食堂、二階には両親の寝室と子供部屋。すべてがヨーロッパ式、ドイツ風になっていました。> ドイツ語版には、その家の写真が掲載されていました。 ![]() 居間にはソファー、テーブル、グランドピアノに加えワイマール時代の立派な家具が揃っていたようです。 4の子供部屋については、母の記録から、 <家全体は木製の床で、子供部屋のある二階には絨毯が敷いてありました。私が寝ていた部屋は3メートル四方の大きさで、おむつダンス、ベビーベッド、ストーブ、それに小さなテーブルと私用の高さの2脚の椅子、それに長椅子と藁製のマットがありました。> と説明されていました。 6の台所では日本人のあまさんたちが食事を作るのですが、ミュラーさんの一番好きな場所だったと述べられています。 <台所は私にとっては特別でした。食事が準備される場所ということだけではなく。そこでのすべてが私の世界で、日本の食事を楽しみ、試食も許された場所でした。いつも2種類の食事が料理されました。家の主人にはドイツ料理、あまさん達自身には日本料理です。> ミュラーさんは幼いころからドイツ料理も日本料理も楽しまれていました。 <こうしたことから私は早い時期から二つの異なった世界の食事を食べたり、味見したりしていました。明らかに食事は私にとっては今日に至るまで大切な作業であり続けています。そしてまず、日本のお米、ご飯が今なお私の身体に浸み込んでいるいる味なのです。> ご飯はミュラーさんも子供時代からお好きだったようです。 この洋館は残念ながら残っていませんが、大正の終わりに開発された岡本地区には洋館がたくさんあったようです。 昭和19年初秋、大阪の街なかに住んでいた阪田寛夫は『わが小林一三』で、中部二十三連隊に入営する前に、梅田から阪急電車に乗って岡本の街を歩いたことを回想しています。 ![]() <住宅街の坂道を一番外れの丘までゆっくり登って、家々を見下ろせる赤松林で弁当を食べ、日が傾くまで松風の匂いや、白い塀や、煙突の出た赤屋根の勾配やらを、この世の名残に何一つ見落とさず見につけて戦地へ行こうと、歩きまわったものであった。だがそれは、いくら触れようとしてももはや実体の無い蜃気楼のように見えた。> 詩人でもあり感性豊かな阪田寛夫は、当時の岡本の心象風景を次のように述べています。 <もし少年時代のある日のたそがれどき、坂の多い松の香りにむせるようなその街の一角に、感傷に身をまかせて立ちすくんでいたとすれば、石英分の多い六甲の峰々が上の方から順に紫色に変わって行き、やがて同じ色の風が麓の洋館赤屋根の瓦や壁まで深く染めるのを、世界苦の響きを聞く面持ちでどんなにか苦しげにこの身の肌に受け止めようとしたことだろう。すると心が一層迫ってきて、灯火がともり始めた谷間や丘の窓硝子という窓硝子の内側に、どうしてもスリッパを履いた美しく聡明な少女が愁い顔に立っていると信ぜざるを得なくなるのである。> ![]() 現在の岡本は住宅地となっていますが、残念ながら、このような心象風景を思い起こさせるような洋館は残っていません。
by seitar0
| 2020-11-04 08:26
| 岡本
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