ラフカディオ・ハーンは明治28年に熊本から 神戸市の
コーベクロニクル社に就職し、2年間神戸に住んでいました。
ハーンが勤めた神戸クロニクル社は明治32年には紙名を『ジャパン・クロニクル』と変え、その後、旧外国人居留地の浪速町65番地(現在のNTT三宮電電ビル)へ移転しています。下の黄色四角の位置。
異人館の画家として知られる小松益喜が、『小松益喜画文帖』にその建物の絵を描いていました。

<この英字新聞社は、電々会館が建っているその東北角から、三十歩もいった辺りにあった。三階が出窓になっているちょっと風変わりな英国風建物だった。
この新聞は、最初は明治二十年「ヒョウゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド」という名前で発行され、明治24年「コウベ・クロニクル」と合併、明治32年焼失、33年「ジャパン・クロニクル」と改称したもので、この画を描いた昭和18年頃は、まだ昔のままの姿で残っていた。そしてこれも昭和20年の戦災で焼失してしまった。>
その写真もありました。
ここへ移転する前のコーベクロニクルの写真が神戸文学館に展示されていました。
中央奥の建物です。
ここにハーンは勤めていました。
場所は旧居留地西側の境界・鯉川筋(現メリケンロード)
クロニクル社は栄町通一丁目7番地に所在していました。
赤の位置です。
『小説ラフカディオ・ハーン 旅する帽子』ではその窓から見える風景について次のように述べています。
<わたくしの机は壁に面していたが、その壁の上に大きな窓があった。そこから通りをいくひとを眺めることができた。これまで日本において見てきた風景とはひどくかけ離れた光景がそこに広がっていた。ダブリン、ロンドン、ニューヨーク、シンシナティ、ニューオーリンズ、フィラデルフィア……そうしたところで見てきた光景にかなり似ていた。いや、正確に言えば、似せるように試みていた。こうした光景はもはやわたくしにとっては別世界のものであり、わたくしが日本人でなかったときの生活を思い起こすだけのものになりつつあった。>
居留地の西欧風の風景に不満を漏らしていました。