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与謝野家の長男・光と結婚した小林天眠の三女・迪子の『想い出 わが青春の與謝野晶子』を読んでいると、小林家の長女が転地療養のため新宮の西村家に滞在したことが書かれており、小林天眠の交友の広さに驚きました。 ![]() 小林天眠(本名;政治)は明治10年に兵庫県加西市の自作農家に生まれ、15歳で大阪にでて繊維問屋の丁稚奉公、22歳で毛布問屋を開業、その後大阪変圧器株式会社(現、株式会社ダイヘン)を創業し、初代社長となった大実業家です。そのかたわら小林天眠のペンネームで小説を書き、文学青年として浪花の文壇を生涯支援し続けた人物。また天佑社という出版社を起こし、「モウパッサン全集」や晶子の「心頭雑草」、平塚らいてう「婦人と子供の権利」など後世に残る本も出しましたが、本業の経営悪化、関東大震災などでわずか4年で廃業となっています。 明治20年代後半には、紡績業や織物業が栄え、大阪は「東洋のマンチェスター」と呼ばれるようになり、更に大正後期から昭和初期にかけて大阪市は人口・面積・工業出荷額において日本第一位となり「大大阪時代」を迎えます。 ![]() 天眠が活躍したのもこの時代でしたが、大阪の生活環境は今では考えられないほどの悪さで、小林家の長女の安也子は女学校卒業を前にして軽い肺尖カタルを患っていました。 与謝野迪子『想い出』からです。 <今の公害に及ぶべくもないが、その時分から大阪は煤煙の都、空気は悪く太陽の恩恵を受けることも少なく、自然の緑も東京ほど多くはなく悪い環境だった。軽症であったので具合のよい日は学校に出たが、二階の子供部屋で一人で床に就いている日も多かった。> 当時は的確な薬もなく、牛乳を毎日飲ませたり、牛肉を食べさせるという栄養療法しかなかったようで、大正9年には空気のよい新宮の西村伊作の家に預けることにします。詳しい経緯は書かれていませんでしたが、当時与謝野晶子が小林天眠の邸に逗留しており、次のように、西村家の暮らしを紹介しています。 <紀州にね、西村さんというかたのお家があってね、珍しい西洋ふうの暮しをしてられるのですよ。佐藤春夫さんや、沖野岩三郎さんもよく行かれるのですが、富本憲吉さんが西村さんと一緒にやきものをされるとき、バーナード・リーチさんもみえたそうで……(小林天眠の娘安也子の回想より)>(加藤百合『大正の設計家 西村伊作と文化学院』) 『想い出』い戻ります。 この時代、大阪から新宮へは汽船で一昼夜かけて勝浦まで行ったそうです。 <長姉安也子が母と大叔父その他の人々と、新宮へ旅立って行ったのは、爽やかな初夏の候であったろうか、私達は単衣を着ていた。安治川口の天保山から出る船を、父といっしょに見送った。病弱な母が病気上がりの姉を連れて、今から思えば不便な長旅であったろうが、明るい南国の町、紀州新宮の西村家に落ち着き、一家をあげての暖かいもてなしを受けた。> 大正9年は第一次世界大戦後の過剰生産が原因で輸出不振となり、大戦景気で好調だった綿糸や生糸の相場も半値以下に暴落して打撃を受け、21銀行が休業という戦後恐慌が始まった年でした。小林天眠は新宮に同行するための乗船券まで用意していましたが、この時、銀行の支払い停止が勃発したため、見合わせ、天眠の叔父(迪子の大叔父)に代行を頼んだのでた。 ![]() <西村家の話を母から、また長姉の手紙で知った時、私達は外国の家庭小説オルコットの「四少女」の物語りの中の情景描写を思い浮かべた。その時代としては日本人離れのした純洋式の住居、広い庭も洋風、明るく合理的で清潔な洋館に夫人を除いた家族一同が洋服、それも、純欧米風の服装が板についていた。> キリスト教に入信した父・大石余平により幼年時代から西洋式に育てられた西村伊作は、明治39年に自邸として、わが国で最初のアメリカ式のバンガロー住宅を建て、理想の生活を実践するために工夫を重ね、いわば集大成として大正4年に、3番目の自邸、現・西村記念館を完成させています。 ![]()
![]() <六年生のアヤちゃんを頭に、久二、ユリ、ヨネ、永吾、ソノ、ナナの七人の子供たちが可愛らしい服を着、白い大きな洋館の前で、ごく自然なポーズで撮っている写真を見た時、次姉と私は余り見事な洋風化家庭に、憧れをもって感嘆したもんである。> ![]() 西村家にはその後大正11年に三男八知が生まれ、昭和2年にはクワが生まれて子供は9人でした。 ポスターを拡大した昭和9年の西村ファミリーの写真。 ![]() この写真でも西村家で奥様だけが頑なに着物を着ているのが印象的です。 ピューリタン式の西洋風生活を理想とした伊作は、自らの頭の中に残る幼年時代の生活像を実現するため、「西洋的教養の全くない」妻に、料理・西洋式洗濯・機織り・英語に至るまで教え込むことから結婚生活をはじめたそうです。(加藤百合『大正の設計家 西村伊作と文化学院』) 奥様はどんな人柄だったのでしょう。 さて小林安也子は、8月近くに元気になって戻ってきます。 <長姉は八月近くまで新宮の西村家に滞在し、元気になって帰ってきた。衣食住のうち、住の洋式化は姉の手におえなかったが、衣の方はさっそく、有り合わせの切れ地を集めて、妹達に洋服を縫って着せた。丸善に行って、イギリスのウエルドン社やアメリカのパタリック社の子供服雑誌を求め、西村夫人より教わった洋裁の腕をふるった。私も姉に裁って貰って、衿や袖口にひらひらのついた服を、ベージュ色の絹袖で作って着たが、人がじろじろ見るので直ぐやめてしまった。> そんな時代の興味深い西村伊作の生き方、『我に益あり』という自伝に詳しく書かれていました。私の尊敬する人物の一人です。 西村伊作が長女アヤのために文化学院を創立したのは翌年の大正10年でした。
by seitar0
| 2020-07-13 22:13
| 西村伊作
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