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さて薬師寺で「国宝東塔修理作業所最終公開」の見学後、唐招提寺に向かいました。 薬師寺の興楽門前から真っ直ぐに唐招提寺に向かう道があります。 『大和路・信濃』からです。 <それから僕はもと来た道を引っ返し、すっかり日のかげった築土道を北に向って歩いていった。二三度、うしろをふりかえってみると、松林の上にその塔の相輪だけがいつまでも日に赫いていた。 裏門を過ぎると、すこし田圃があって、そのまわりに黄いろい粗壁の農家が数軒かたまっている。それが五条という床しい字名の残っている小さな部落だ。天平の頃には、恐らくここいらが西の京の中心をなしていたものと見える。> この道を真っ直ぐ唐招提寺の南大門に向かいます。 <もうそこがすぐ唐招提寺の森だ。僕はわざとその森の前を素どおりし、南大門も往き過ぎて、なんでもない木橋の上に出ると、はじめてそこで足を止めて、その下に水草を茂らせながら気もちよげに流れている小川にじいっと見入りだした。これが秋篠川のつづきなのだ。> こちらが南大門の入口ですが、私も堀辰雄に従って、秋篠川の橋のところまでやって来ました。もちろん当時と違って木橋ではありません。 こちらの写真はその橋から、南の方向を見たものです。矢印の位置に現在大修理中の薬師寺東塔があります。 堀辰雄はこの後、裏手の門から唐招提寺に入ります。 和辻哲郎『古寺巡礼』でも、秋篠川の橋のたもとまで来て、南大門ではなく秋篠川沿いの横の門から入ります。 <道から右へ折れて、川とも呼びにくいくらいな秋篠川の、小さい危うい橋の前で俥を下りた。樹立ちの間の細道の砂の踏み心地が、何とはなくさわやかな気分を誘い出す。道の右手には破れかかった築泥があった。なかをのぞくと、何かの堂跡でもあるらしく、ただ八重むぐらが繁っている。もはや夕暮れを思わせる日の光が樹立ちのトンネルの向こうから斜めに射し込んで来る。その明るい所に唐招提寺があった。 唐招提寺へは横の門からはいった。初めてあの金堂を見るT君のためにはぜひ正面の南門へ回るべきであったが、みんなはもう幾分か疲れていたので、わざわざ遠回りをする勇気も出ず、ずるずると金堂の横へ出たのであった。> こちらが秋篠川の橋から北側を見た写真です。大正7年に和辻哲郎が訪れたときの秋篠川の橋は「小さい危うい橋」だったようですが、現在はバス道にもなっており、立派な橋です。 左手に唐招提寺の森が見え、向こうに見える橋の当りに門がありますが、現在は南大門からしか入場できませんので、南大門に戻りました。 和辻哲郎は金堂の美しさを、その設計の素晴らしさと共に、謳いあげています。 長文ですが、これ以上の素晴らしい説明はないので、ご紹介します。 <しかし堂のうしろ側の太い柱の列やその上にゆったりとかかっている屋根の線が眼に飛び込んで来ると、やはりハッとせずにはいられないものがあった。大海を思わせるような大きい軒端の線のうねり方、――特にそれを斜め横から見上げた時の力強い感じ、――そこにはこの堂をはじめて見るのでないわたくしにとっても全然新しい美が感ぜられたのである。 この堂の横の姿の美しさをわたくしは知らないではなかった。かつて堂の西側の松林のなかに立って、やはり斜めうしろから、この堂の古典的な、堂々とした落ちつきに見とれた時にも、あの屋根の力強さや軽さ、あの柱の重さや朗らかさは、強い印象をわたくしに与えた。しかしあの渾然とした調和や、底力のある優しみや、朗らかな厳粛などが、屋根や柱の線の微妙な釣り合いにかくばかり深くもとづいているとは気づかなかったのである。軒端の線が両端に至ってかすかに上へ彎曲しているあの曲がり工合一つにも、屋根の重さと柱の力との間の安定した釣り合いを表現する有力な契機がひそんでいる。天平以後のどの時代にも、これだけ微妙な曲線は造れなかった。そこに働いているのは優れた芸術家の直観であって、手軽に模倣を許すような型にはまった工匠の技術ではない。 そういう感じを抱きながら堂の正面へ出て、堂全体をながめると、今さらながらこの堂の優れた美しさに打たれざるを得なかった。この堂全体は右のような鋭い、細かい芸術家の直観から生まれている。寄せ棟になった屋根の四方へ流れ下るあらゆる面と線との微妙な曲がり方、その広さや長さの的確な釣り合い、――それがいかに微妙な力の格闘(といっても、現実的な力の関係ではなく、表現された力の関係である)によって成っているかは、大棟の両端にある鴟尾のはね返った形や、屋根の四隅降り棟の末端にある鬼瓦の巻き反ったようにとがった形が、言い現わし難いほど強い力をもって全体を引きしめているのに見てもわかる。ことに鴟尾の一つが後醍醐時代の模作として幾分拙ないために、両端から中央へ力を集めようとする企画がかなりの破綻を見せているなどは、この堂の調和の有機的なことを思わせるに十分である。さらにこの屋根とそれを下から受ける柱や軒回りの組み物との関係には、数えきれないほど多くの繊細な注意が払われている。柱の太さと堂の大きさとの釣り合い、軒の長さと柱の力との調和、それらはもうこれ以上に寸分も動かせない。大きい屋根が、四隅へ降るに従って、面積と重量とを増して行く感じを、下からうけとめ、ささえ上げるためには、立ち並んだ八本の柱を、中央において最も広く、左右に至るに従って漸次相近接して立てている。その間隔の次第に狭まって行く割合が、きわめて的確に屋根の重量の増加の感じと相応じているのである。もとよりここには屋根の面や線のまがり方も重大な関係を持つのであって、降り棟の端へ集まった屋根の重さは、軒端の線の彎曲によって、そこから最も遠い中央の柱へも掛かって行くようになっている。かくして上と下との力が何らの無理もなく相倚り相掛って、美しい調和を造り出すに至るのである。 これらのことは精密な計算によって明らかにされるのであるかも知れない。たとえば柱の間隔が左右に至るに従って狭まる率や、その結果柱の支力が左右に至るに従って高まる率などは、数学的に計算し得られるであろう。それに対応して軒端の線も屋根の面も左右に至るに従って上へ彎曲している。その彎曲線や彎曲面の曲率と支力の高まる率との間にも何らかの関係があるであろう。もちろんこれは現実的な力の関係ではない。屋根が上へそり反ろうと、あるいは下へ垂れ下がろうと、それによって屋根の重さに変わりがあるわけではない。しかし上へそり反った屋根の下に強力な柱があれば、その屋根の彎曲が柱の支力の表現になるのである。ここで問題にするのはそういう表現の背後に案外に精確な力の関係が隠されているのではないか、という点である。> 屋根の反りの美しさはよくわかりますが、柱の間隔が違っているとは気づきませんでした。 そして、西洋のゴシック建築と東洋の木造建築について文化と風土の相違をひきながら見事に解説します。 <堂の正面をぶらぶらと歩きながら、わたくしは幸福な少時を過ごした。大きい松の林がこの堂を取り巻いていて、何とも言えず親しい情緒を起こさせる。松林とこの建築との間には確かにピッタリと合うものがあるようである。西洋建築には、たとえどの様式を持って来ても、かほどまで松の情趣に似つかわしいものがあるとは思えない。パルテノンを松林の間に置くことは不可能である。ゴシックの寺院があの優しい松の枝に似合わないことも同様であろう。これらの建築はただその国土の都市と原野と森林とに結びつけて考えるべきである。われわれの仏寺にも、わが国土の風物と離し難いものがある。もしゴシック建築に北国の森林のあとがあるとすれば、われわれの仏寺にも松や檜ひのきの森林のあとがあるとは言えないだろうか。あの屋根には松や檜の垂れ下がった枝の感じはないか。堂全体には枝の繁った松や檜の老樹を思わせるものはないか。東洋の木造建築がそういう根源を持っていることは、文化の相違を風土の相違にまで還元する上にも興味の多いことである。> さらに金堂の本尊の盧舎那仏や千手観音の美しさの解説が続きます。 こちらの写真は金堂を出た所にある鼓楼と礼堂です。 この後、講堂についても詳しく解説されています。 和辻哲郎の審美眼は鋭く、『古寺巡礼』は奈良の古寺を巡るうえで必携の書です。
by seitar0
| 2019-05-12 15:17
| 奈良
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